上田沢村(読み)かみたざわむら

日本歴史地名大系 「上田沢村」の解説

上田沢村
かみたざわむら

[現在地名]朝日村上田沢

荒沢あらさわ村の北、大鳥おおとり川の右岸に位置し、北は下田沢村、西方対岸は倉沢くらさわ村。地内を南北に大鳥街道が通り、西北部を上田沢川が西流して大鳥川に合する。かつては下田沢村と一村で田沢村と称したが、正保(一六四四―四八)頃に二村に分れたと思われる。下田沢にあった田沢城の出城と考えられる上田沢館跡があり、一〇段以上の空濠がみられる。天正一五年(一五八七)最上氏は庄内制圧、しかし翌一六年には越後村上城主本庄繁長などの上杉勢によって庄内を追われた。同一七年と推定される六月二日の来次氏秀書状写(阿部正己資料所収文書)によると、このとき本庄繁長は「田沢」などを攻め落し、最上勢を打払っている。

寛文七年(一六六七)以後に写したと思われる慶長一六年(一六一一)の田沢村検地帳(南支所文書)が残る。

上田沢村
かみたざわむら

[現在地名]黒保根村上田沢

下田沢村の東に位置し、小黒おぐろ川の支流沢入そうり川・田沢川の合流点一帯が村の中心。寛文郷帳によると田方五石余・畑方二四三石余、館林藩領。天和二年(一六八二)の分郷配当帳では旗本坂本領四七二石余、同松平領四七二石余。天保一四年(一八四三)の村明細帳(鈴木文書)によると坂本領(高は同前)幕府領(四七二石余)の相給。この明細帳は幕府領分のもので家数五四・人数二一九、馬一四。年貢定免、小物成に炭竈役・百姓林銭・中絹売出一九疋分・下絹売出三疋半分・定納水車運上・漆売出分などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報