日本歴史地名大系 「下丹生村」の解説 下丹生村しもにゆうむら 滋賀県:坂田郡米原町下丹生村[現在地名]米原町下丹生枝折(しおり)村の南西、霊仙(りようぜん)山の北西麓に立地し、村内を丹生川が北流。同川沿いに朝倉(あさくら)・坂口(さかぐち)・江龍(えりゆう)・下松尾(しもまつお)の四集落があり、これらが当村を形成していた。「輿地志略」では下松尾を除く三集落を当村の端村としている。「木間攫」は「丹生村五村」として朝倉・坂口・下松尾・江龍と上丹生の名をあげる。上丹生・下丹生は古代の坂田郡上丹(かむつにゆう)郷(和名抄)の遺称地とされ、「興福寺官務牒疏」に霊山(りようぜん)寺の所在を記して「在坂田郡丹生郷」とある。 下丹生村しもにゆうむら 群馬県:富岡市下丹生村[現在地名]富岡市下丹生丹生川が村央を東流し、東は宇田(うだ)村・一(いち)ノ宮(みや)村、北は下高田(しもたかた)村(現甘楽郡妙義町)、西は原(はら)村などと接する。上・下丹生一帯は「和名抄」丹生郷に比定され、「万葉集」巻一四に収める「真金吹く丹生の真朱の色に出て言はなくのみそ吾恋ふらくは」は当地を詠んだものとされる。中世にも丹生郷と称された。南北朝期には新田岩松氏の本領となり(年未詳「岩松持国本領所々注文」正木文書)、応永三二年(一四二五)前に相論があったようで同年一二月二六日には持国の養子満長の代官に去り渡す旨の関東管領家奉行人奉書(写、同文書)が出され、翌一月二六日には守護代長尾憲明の遵行状(写、同文書)が出ている。 下丹生村しもにゆうむら 滋賀県:伊香郡余呉町下丹生村[現在地名]余呉町下丹生中之郷(なかのごう)村の北東、地内を南流する高時(たかとき)川上流(丹生川)右岸に位置する山村で、北に上丹生村がある。永和五年(一三七九)三月二八日の室町幕府御教書案(地蔵院文書)に「余呉庄内丹生・菅並両村」とある。丹生村内に重兼(しげかね)・末遠(すえとお)・重友(しげとも)・延安(えんあん)・国守(くにもり)・貞国(さだくに)・国貞(くにさだ)・刀禰(とね)・東造・与次・重包・摺見(するみ)などの名が成立。これら名の耕地は江戸時代に村切されて成立する上丹生・下丹生両村にまたがり、相互に入組み散在していた(上丹生神社文書)。元亀三年(一五七二)岩脇市介が丹生谷で戦死している(同年閏正月一八日「浅井長政感状」妙意物語所収文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by