下大隅郡(読み)しもおおすみぐん

日本歴史地名大系 「下大隅郡」の解説

下大隅郡
しもおおすみぐん

中世の大隅国の郡名。単に下大隅と記されることもある。郡域は現垂水たるみず市および鹿屋かのや市の西部を含む大隅半島西岸と考えられる。当郡は古代の大隅郡を分割した呼称と考えられるが、上大隅郡の呼称は史料上みえない。大隅国建久図田帳に島津庄(殿下御領で地頭は島津忠久)寄郡のうちに下大隅郡九五町九段がみえる。建仁三年(一二〇三)島津忠久比企氏の乱に縁座して島津庄地頭職を失い、忠久が押領していた下大隅郡などの弁済使得分米の京都への運上が藤原義広に命じられており、義広が下大隅郡弁済使に任じられていた(同年一一月一〇日・同四年一月一八日「島津庄政所下文」肝付文書など)。義広は藤原姓富山氏とみられ、在地の庄官の代表的存在であったのであろう。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)でも下大隅郡は九五町九段で、九丈五尺九寸の筑前博多湾岸の石築地を負担することを定められていた。

弘安八年(一二八五)一〇月日の建部定親所領注文案(禰寝文書)に「嶋津庄官下大隅南方弁済使左近入道寂念」とみえる。元亨三年(一三二三)四月二一日の藤原時義譲状写(同文書)によると、下大隅南方野里のざと(現鹿屋市)の弁済使職が時義の養嫡子禰寝殿子息亀寿(建部姓禰寝清義)に譲渡されている。このように鎌倉時代後期に当郡は南方・北方に分れていたようで、嘉暦三年(一三二八)一一月一五日の沙弥道勝書下案(同文書)には道勝と下大隅の万福女が横山よこやま(現同上)について和与したことが記され、和与の際の口入人として「下大隅北方地頭代原田新左衛門尉重義」の名がみえる。なお応永二〇年(一四一三)六月一日の藤原忠元置文(旧記雑録)に「下大隅郡西方木志之村」とみえ、木志之きしの村に比定される現垂水新城しんじよう地内の松崎まつがさき川河口付近は西方と称されていた。一方、島津忠久ののちに島津庄大隅方惣地頭となったのが名越氏で、肥後氏は名越氏被官の地頭代として肝付きもつき郡弁済使肝付氏とたびたび相論に及んでいる(正応元年七月二九日「少弐経資書下」・同二年八月二四日「関東下知状」肝付文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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