[ 一 ]の万葉歌の「いは走る」は、平安鎌倉期の訓では「岩そそぐ」。平安期には「万葉‐一四一八」に「垂見(水)」を「垂氷(たるひ)」とする異伝がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
鹿児島県、大隅半島(おおすみはんとう)の西部、鹿児島湾に面する市。1955年(昭和30)垂水町と牛根(うしね)、新城(しんじょう)の2村が合併、1958年市制施行。東部はシラス台地で高隈(たかくま)山地に連なる。鹿児島湾岸沿いと本城川(ほんじょうがわ)流域に沖積平野が細長く広がる。大隅半島の表玄関で、鹿児島市(鴨池(かもいけ)港)との間を大型カーフェリーが就航。国道220号が通じるが、旧国鉄大隅線はバスに転換された。歴史は古く、縄文・弥生(やよい)時代の遺物が多く出土している。中世末、伊地知氏(いじちうじ)が勢力を拡大したが島津氏に敗れ、近世は石高(こくだか)1万7000石の垂水島津氏の私領となった。1611年(慶長16)島津忠仍(ただなお)(1574―1621)が林之城を築き、計画的な町(麓(ふもと)集落)づくりが行われ、今日の都市基盤が形成された。温暖な気候を生かしたポンカン、ミカン、ビワなどの果樹栽培、キヌサヤエンドウ、インゲンなどの野菜栽培を中心とした農業、ブタを中心とした畜産、ブリ、カンパチの養殖、地場産業としての大島紬(つむぎ)の製造などが盛んである。観光地として、桜島を眼前に望む海潟(かいがた)温泉、高隈山県立自然公園の一部の高峠(たかとうげ)つつじヶ丘公園、キャンプ場や温泉のある猿ヶ城(さるがじょう)渓谷一帯は大隅自然休養林に指定されている。つつじヶ丘は霧島錦江湾(きんこうわん)国立公園の一部。高城(たかじょう)にある勝軍(しょうぐん)地蔵は県指定文化財。面積162.12平方キロメートル、人口1万3819(2020)。
[平岡昭利]
『『垂水市史』上下(1974、1978・垂水市)』
神戸市南西部、垂水区の中心地区。旧垂水町。播磨(はりま)国の東端にあり、古代には東大寺領垂水荘(しょう)の地。明石(あかし)海峡に臨む。六甲山地と海岸の間の狭い地域で、明石層群の丘陵と海岸段丘からなる。地名も、断崖(だんがい)が海に迫り滝や急流が流下したことに由来するという。開発の歴史は古く、縄文前期、弥生(やよい)後期の住居跡のある複合遺跡大歳山(おおとしやま)遺跡や、前方後円墳の五色塚(ごしきづか)古墳(国の史跡)があり、神功(じんぐう)皇后の創建と伝えられる海(わたつみ)神社がある。昭和初期に、塩屋の山地が外人住宅地に開発されジェームス山と名づけられたのを機に、急速な住宅地化が始まった。山陽本線(JR神戸線)、山陽電鉄本線、国道2号が通じる。また明石海峡大橋が淡路(あわじ)島に架かる。
[二木敏篤]
鹿児島県のほぼ中央,大隅半島の西海岸にある市。1958年市制。人口1万7248(2010)。鹿児島湾をへだてて鹿児島市と相対し,大隅半島への出入口にあたる。市域は桜島の基部一帯を占め,東部は高隈山地で,その西にシラス台地がつづく。中心市街の垂水は高隈山地から発する本城川の河口にあり,古くから大隅地方の中心で,近世には北部の牛根,南部の新城とともに薩摩藩支配の拠点である外城(とじよう)としての役割を担った。1871年(明治4)の廃藩置県後,支庁,郡役所などが置かれたが,87年郡役所は内陸部の鹿屋(かのや)に移り,繁栄を奪われた。しかし現在も鹿児島市と大隅半島を結ぶ交通の要衝であり,鹿児島へ約35分で通じるフェリーが37往復し(2008),年間輸送人員310万人,車両98万台(1996)に達する。気候温暖のためポンカン,ウンシュウミカン,ビワなどの果樹類や野菜の栽培が行われ,特にサヤエンドウの出荷が多い。またハマチ養殖を中心とする漁業も盛んである。ツツジの多い高峠高原はキャンプ,ハイキングに好適で,大隅自然休養林に指定されている。海潟温泉,垂水温泉があり,特に近年健康ブームにのって飲む温泉水の摂取販売が盛んである。
執筆者:服部 信彦
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