下宮田村(読み)しもみやだむら

日本歴史地名大系 「下宮田村」の解説

下宮田村
しもみやだむら

[現在地名]吉井町宮田みやだ

筑後川中流左岸の微高地に位置し、若宮わかみや村・小江おえ村・角間かくま村・四太郎したろう村と隣接する。室町時代初期と推定される七月二二日の道永書状写(北野社文書/南北朝遺文(九州編)六)に、筑前大山だいせん(現太宰府市)領として「三沢・橘田・宮田溝口」がみえる。三沢みつさわ(現小郡市)御原みはら郡であるが、ほか生葉いくは郡の現吉井町北東部の地名である。天正八年(一五八〇)二月一〇日、大友義統は「上筑後宮田参拾町之内、十二町分」を簗瀬三河入道に預け置いている(「大友義統知行預ケ状」大友家文書録/大分県史料三三)。江戸時代の本高は二〇一石余(元禄国絵図)


下宮田村
しもみやだむら

[現在地名]三浦市初声はつせ町下宮田

台地上に畑、低地に水田があり、西側はわずかに海に面し、矢作やはぎ湊とよばれる入江に接する。東は上宮田かみみやだ村に接する。小田原衆所領役帳に桑原弥七郎「廿貫文 三浦郡宮田之内」とあり、永禄一〇年(一五六七)九月二五日の北条家朱印状写(県史三)に上宮田とあるので、この頃すでに上下二村に分れていたと思われる。

享保五年(一七二〇)の豆相海浜浦々図(県立文化資料館蔵)によれば、下宮田湊は幅五〇間、奥行四丁一〇間、水深約一丈で、平均四―六尺。


下宮田村
しもみやたむら

[現在地名]田沢湖町梅沢うめざわ

院内いんない川の西岸氾濫原にある新田村。南は国館くにだて村、東は鎌野川かまのかわ村、西は小淵野こぶちの村・上宮田かみみやた(現西木村)、北は上宮田村に接する。

享保八年(一七二三)の仙北郡郡村本村支村御高調帳(秋田県庁蔵)に「下宮田村、此村惣名ニ而本村ニ人居無御座候。下宮田村小高之江ニ御座候肝煎相勤可申事無御座先年より鍬延御百姓鎌野川村ニ而肝煎相勤御黒印所持仕御皆済諸役相勤申候、家数三軒」とあり、新田のみで高一二八石余、免は四ツ成で当高は八五石八斗七升。


下宮田村
しもみやだむら

[現在地名]遊佐町宮田みやだ

宮田村の北にあり、月光がつこう川中流右岸に位置する。天正六年(一五七八)一二月一五日の武藤義氏充行状写(別集奥羽文書纂所収文書)によれば義氏は観音寺かんのんじ(現八幡町)城主来次孫四郎に「下宮田十貫之所」を宛行っている。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高一三七石余。寛永元年庄内高辻帳では高一四七石余。享和三年(一八〇三)には家数四・人数三一(「村数家数人高控帳」斎藤文書)


下宮田村
しもみやだむら

[現在地名]木更津市下宮田、袖ケ浦市下宮田

川崎かわさき村の西にある(袖ケ浦市の→下宮田村。地内阿弥陀堂の銅造阿弥陀如来像には正和五年(一三一六)二月二一日の銘文があり、願主は平清胤。


下宮田村
しもみやだむら

[現在地名]袖ケ浦市下宮田、木更津市下宮田

上宮田村の西に位置し、鎗水やりみず川が流れる。文禄三年(一五九四)上総国村高帳村名がみえ、高一六〇石。元禄郷帳では高二〇〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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