下小松村(読み)しもこまつむら

日本歴史地名大系 「下小松村」の解説

下小松村
しもこまつむら

[現在地名]川西町下小松

いぬ川左岸に位置し、北東大塚おおつか村、西は添川そえかわ(現西置賜郡飯豊町)、南は中小松村。天文七年(一五三八)の段銭古帳の「下長井白川より南」のうちに「十三貫五百五十文 下小松」とある。同一三年一〇月二七日の伊達晴宗安堵状(第二高等学校所蔵文書)では「下小松之郷之内片倉伊豆分、たいし堂田年貢壱貫五百文所」が片倉弥五郎に与えられている。この地は「伊達正統世次考」同月二四日の項によれば、「下小松のかう龍泉院」分の年貢一八貫を上進していた原田松鶴丸に替地として「下こ松のこらす」が、大塚信濃に「大こうや一間」の居屋敷が与えられている。天正一二年(一五八四)の下長井段銭帳では「下小まつセん志う寺」の段銭一貫二三二文を守屋伊賀が、「下こまつけんたい寺」の段銭一貫一二〇文をけんたい寺が上納している。


下小松村
しもこまつむら

[現在地名]葛飾区新小岩しんこいわ一―四丁目・東新小岩ひがししんこいわ一―四丁目・西新小岩にししんこいわ一丁目・奥戸おくど四丁目、江戸川区中央ちゆうおうなど

上小松村の東に位置し、東は本一色もといつしき(現江戸川区)、南に西小松川にしこまつがわ(現同上)、北は奥戸新田中世葛西かさい御厨のうちで、上小松村の地とともに小松とよばれた。田園簿に村名がみえ、田四二五石余・畑五〇石余、ほかに野銭永三四四文。「風土記稿」によれば検地は慶安元年(一六四八)に行われた。用水小合こあい溜井より引水。家数七七。村の東を流れるさかい川には土橋がかかっていた。鎮守は五社明神社(現天祖神社)、ほかに鹿島社、天神社(現北野神社)鎮座


下小松村
しもこまつむら

[現在地名]北会津村古舘ふるだて

阿賀川西岸に近く、北は両堂りようどう村、南は上荒井かみあらい村。本村の北東三町二〇間余に小名四壇よだん、本村の北西六町二〇間余に端村松野まつのがある。延文二年(一三五七)三月一〇日の西堂寺太子像銘(現亡失)に「檀主小松金家住人法心妙円二人也」とある。村内に館跡が三つあり、一つには本丸・二の丸・三の丸の跡があり、延文の頃小松弾正包家が築いたと伝える。村内に小松弾正の墓と伝える五輪塔がある(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に小松とあり、高六一八石余。橋爪組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高八八五石余。化政期の家数は本村四七・四壇八・松野一〇(新編会津風土記)


下小松村
しもこまつむら

[現在地名]遊佐町小松こまつ

上小松村の西にあり、北東は上長橋かみながはし村。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高六六石余。寛永元年庄内高辻帳では高三三四石余。享和三年(一八〇三)には家数三三・人数一五二(「村数家数人高控帳」斎藤文書)庄内要覧によれば免五ツ七分二厘、家数二六。天明元年(一七八一)当村をはじめ大楯おおだて村など六ヵ村の村役人は連名で、年貢未納のため庄内藩に雑税減免と御貸米利息の取立延期願を出した(「口上書」斎藤文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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