下市川村(読み)しもいちかわむら

日本歴史地名大系 「下市川村」の解説

下市川村
しもいちかわむら

[現在地名]八戸市川いちかわ町・多賀台たがだい一―四丁目・松ヶ丘まつがおか

五戸ごのへ川の河口に近い下流流域に位置する。東は太平洋に面し、西は上市川かみいちかわ(現三戸郡五戸町)、南は八戸藩河原木かわらぎ村、北は百石ももいし(現上北郡百石町)に接する。

藩政期の支村轟木とどろきは永仁五年(一二九七)五戸郷検注注進状(新渡戸・岩大文書)に「ととろき」とみえ、八反七合と記されている。同注進状では轟木より下流には水田の書上がなく、轟木そのものも水田面積がきわめて寡少となっており、公田もないことから、この時代には五戸川下流・河口部の開田は進んでいなかったものとみられる。戦国時代は名久井なくい(現三戸郡名川町)城主東政勝の所領とされていたが、元亀二年(一五七一)根城南部氏と櫛引氏の戦いにより「高屋敷、両市川」は根城南部氏領に編入されたという(「南部八戸家系」南部家文書)

元和四年(一六一八)知行目録に「弐百拾七石弐斗壱升四合 市川」「壱石八斗四升 三目沢」「弐石壱斗壱升七合 高屋敷」とあり、藩政当初は盛岡藩に属し、根城南部氏に給されていた。正保四年(一六四七)の南部領内総絵図には市川村、一九五石余とあり、同年の郷村帳によれば一九五・三九六石のうち一〇七・三四五石が田である。この頃までの市川村はおもに後年上市川村をさす呼称とみられ、雑書の慶安三年(一六五〇)八月二一日条に「八番鮭一尺六戸之内浜市川ヨリ取上」とあるように五戸川下流の集落浜市川はまいちかわと通称された。同書の翌四年六月五日条に「下市河河南ハ黒森、北ハ美沢、大川ハ二ノ留迄、小川ハ五戸橋切、当年中御運上金総目通共ニ七十目」と下市河がみえる。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には下市川村として高二〇二・三四二石とある。七ヵ年平均の免は一ツ三分三毛。寛政年間の「邦内郷村志」には蔵分二三二・九石余、給分一八・八石余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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