下津野村(読み)しもつのむら

日本歴史地名大系 「下津野村」の解説

下津野村
しもつのむら

[現在地名]海南市下津野

なか村の北、貴志きし川東岸にある。那賀なが郡に属し、東は低い山地を挟んで小畑しようばた(現海草郡野上町)、北は原野はらの村、西対岸は野尻のじり村。石清水いわしみず八幡宮領野上のかみ庄の中心の中村に続き、古くは下戸野しもとの(下殿)とも記されたらしく、原野の中原家には貞応二年(一二二三)四月日付の野上庄下殿村番頭職補任状や、仁治二年(一二四一)二月日付の野上庄下戸野成恒番頭補任状が蔵される。なお宝徳四年(一四五二)三月日付の中原家文書に「石清水八幡宮領紀州野上庄内下津村地免事」とあり、これは下津野村の野を脱したものと思われる。


下津野村
しもつのむら

[現在地名]添田町津野

上津野村の北に位置する。南東仲津なかつ伊良原いらはら(現犀川町)、北は犢牛こつとい(六九〇・六メートル)山並上赤かみあか(現赤村)に接する。村内をいま川が北流するが、現在は油木あぶらぎに昭和四六年(一九七一)に竣工した油木ダムがある。中世は上津野村とともに津野村と称された。元和八年人畜改帳では「下津野村」とみえ、高七三七石余、家数一五三・人数三四九(うち百姓二五・名子五三)、牛三二・馬二〇、正保国絵図元禄国絵図に下津野村のうちとして「油木」「下屋」がみえる。延享三年(一七四六)の小倉領郡村高辻帳(小笠原文庫)では高五七七石余。郷村高帳では高八二六石余、うち新田高八三石余。


下津野村
しもつのむら

[現在地名]本山町下津野

東流する吉野川にかしノ川が注ぐ地の少し下流、南岸にある。木能津きのうづ村の西にあたる。当村は近世初頭に再編成されたところで、天正一七年(一五八九)の本山郷地検帳記載の名・小村に比定することは困難である。しかし同地検帳の下津野村は検地面積七町八反三一代二歩、うち田分八反二七代二歩、畠分六町四六代三歩、屋敷分九反七代三歩、屋敷六で、ほかに堂床(下屋敷)・宮床(下屋敷)があり、「大道」の記載もみられる。また名字をもつ者に高石孫左衛門(主居)がみえ、検地時には当地のほかに田井たい(現土佐郡土佐町)土居どい村に合せて一町三反二代三歩の給地を有している。


下津野村
しもつのむら

[現在地名]吉備町下津野

有田川の南岸、野田のだ村東の平野部に位置する。村内に高瀬たかせ北筋きたすじ一松ひとまつ吉備野きびのの四つの小名があり、吉備野は古代の吉備郷(和名抄)の遺称という(続風土記)

慶長検地高目録によれば村高一千一九九石余、小物成一石九斗八升六合。慶安四年(一六五一)追筆の下津野村御検地帳写(吉備町役場文書)では家数一一〇、うち庄屋二、隠居・後家二四、寺一、大工一、行力一、松売・塩売七、本役人五四。「続風土記」では一千二八一石余、家数一四三、人数五八二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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