下田尻村(読み)しもたじりむら

日本歴史地名大系 「下田尻村」の解説

下田尻村
しもたじりむら

[現在地名]可児市広見ひろみ

田尻村の南、南流する可児川と西流する久々利くくり川の合流点付近にある。伊香いこう七ヵ村の一。元禄二年(一六八九)組頭甚五兵衛が水死した際の米拝借等の願書(渡辺文書)に村名がみえる。元禄郷帳では高九五石余、旗本中川領。安永七年(一七七八)当村の者が下恵土しもえど境の「とう面河原」に土取りに行ったことから、伊香領と下恵土との間で相論となり、双方で境を決め内済した(「済口証文」同文書)。文政六年(一八二三)には前年の出水で当村地内の可児川越場が不可能となったため、野市場のいちば湊へ廻米を出す下切しもぎり村などは馬橋を架けることとし、普請入用を負担しない当村の勝手を訴え出た(「下切村訴状」同文書)


下田尻村
しもたじりむら

[現在地名]柏崎市下田尻

東は平井ひらい村、西は両田尻りようたじり村、南は上田尻村、北は藤井ふじい村。近世の支配は柏崎町と同じ。正保国絵図に田尻村とある。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では下田尻村一五〇石二斗余と、同所新田七〇石五斗余。天和三年(一六八三)の越後中将御領覚では本田三八七石三斗余のほかに新田三ヵ所計一四八石五斗余がある。「白川風土記」では戸数七〇。曹洞宗福寿山不退ふたい寺は、かつて七堂伽藍の大寺であったという(白川風土記)


下田尻村
しもたじりむら

[現在地名]能勢町下田尻

江戸時代初期は上田尻村と一村をなし、同村の南西に位置。田尻川が北東から南へ流れる。川沿いの道は能勢街道に通じている。南は川辺かわべ国崎くにさき(現兵庫県川西市)。当地の北部の谷を中心に遺跡が分布し、原林はらばやし遺跡からは縄文中期の石鏃のほか、土師器須恵器が、東藤木ひがしふじき遺跡からも石鏃・土錘が発見された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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