下石村(読み)おろしむら

日本歴史地名大系 「下石村」の解説

下石村
おろしむら

[現在地名]土岐市下石町

北流する妻木つまぎ川沿いに広がる盆地内にあり、南は妻木村、北は土岐口ときぐち村。東から流れる下石川が中央で妻木川に合流する。慶長郷帳に「おろし村」とみえ高七九三石余、元和二年(一六一六)の村高領知改帳では旗本妻木玄蕃頭領、正保郷帳では田高七三七石余・畑高八九石余、ほかに小物成米(山年貢)三石余、柴山草山がある。万治元年(一六五八)以降幕府領。文化一二年(一八一五)の五人組帳(土岐市史)によればかま組・山神やまがみ組・清水しみず組からなり、家数は計一三八。


下石村
しもいしむら

[現在地名]豊平町下石

海応寺かいおうじ村の南東にあり、村内を東流する志路原しじわら川の扇状地集落が広がる。東は舞綱もうつな(現千代田町)、南は寺原てらばら(現千代田町)、西は上石の諸村に接する。村名は慶長六年(一六〇一)検地帳(「国郡志下調書出帳」所収)に「下石井村」とあるが、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳は「下石村」と記す。

前記検地帳による高は二五一・五石。


下石村
さがりいしむら

[現在地名]志雄町下石

散田さんでん村の南東、子浦しお川上流域の河岸段丘上にある山村で、うす峰氷見みねひみ街道の入口に位置し、集落東端に沓掛くつかけ橋が架かる。正保郷帳に下り石村とみえ、高五四石余、田方二町一反・畑方一町五反余、免三ツ六歩七厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高六八石、免四ツ八歩、小物成は山役七四匁、鳥役二匁(出来)とみえ(三箇国高物成帳)、村高のうち一四石余が肝煎長兵衛持高(同一一年「十村高辻帳」平畠文書)


下石村
おろじむら

[現在地名]気高町下石

上原かんばら村の東、逢坂おうさか谷の奥部東方の山麓に位置する。拝領高は二三九石余、本免は五ツ九分。藪役銀九分が課せられ(藩史)竹腰氏・真田氏・富山氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によると家数一三。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二六五石余、竈数二四。享保一八年(一七三三)当村を含む逢坂谷の小別所こべつしよ(現鹿野町)飯里いいざと村など五ヵ村と日置ひおき谷の小畑おばた(現青谷町)との間で草山入会をめぐって争いとなっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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