日本歴史地名大系 「下福田村」の解説 下福田村しもふくだむら 千葉県:成田市下福田村[現在地名]成田市下福田宝田(たからだ)村の西に位置し、集落東端を成田と滑川(なめがわ)河岸(現下総町)を結ぶ道が南北に通る。天正一九年(一五九一)の検地帳(下福田区有文書)に香取郡埴生(はぶ)庄福田郷とあるようにもとは上福田村とともに一郷をなしたが、のち上下に分村した。分村年代は不明だが、寛永八年(一六三一)の上福田村検地帳(上福田区有文書)があり、天正一九年から寛永八年の間に分村した。「寛文朱印留」に佐倉藩領として村名がみえ、元禄郷帳では高三一三石余。 下福田村しもふくだむら 石川県:加賀市下福田村[現在地名]加賀市大聖寺下福田町(だいしようじしもふくだまち)大聖寺川右岸、極楽寺(ごくらくじ)村の南西にあり、上流は上福田村。中世は同村とともに福田庄福田本(ふくだほん)郷の地。正保郷帳によると高八五八石余、田方三六町四反余・畑方一九町九反余、物成高三八二石余、ほかに新田高三八九石余(物成高一六〇石余)、田方一八町余・畑方六町八反余。「江沼志稿」では高一千二九七石余、三(み)ッ村へ七〇石、荻生(おぎゆう)村へ四三石余、上木(うわぎ)村へ一石余の越高があり、小物成は山役一五一匁余のほか川役・栗役・漆役、家数八七・人数二九六、馬一。 下福田村しもふくだむら 岡山県:真庭郡八束村下福田村[現在地名]八束村下福田蒜山(ひるぜん)三座の中央、中蒜山の南面裾野を村域とし、南限を東へ流れる旭川左岸の蒜山原台麓や沖積平野に八日市(ようかいち)・中井川(なかいがわ)・千町(せんぢよう)・下井川(しもいがわ)・市木(いちき)、高原部に上井川の集落がある。正保郷帳によれば田高二八三石余・畑高八三石余、元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高七二石余・開高六八石余。元禄初頭の家数七三・人数三四三(作陽誌)。領主の変遷は中福田村に同じ。明治五年(一八七二)には博労七名がいた(「馬喰改控」二若文書)。翌六年の物産取調帳(同文書)によると産物はおもに米と煙草。真言宗御室派平松山高福(こうふく)寺がある。本尊は聖観音。かつては岡松山薬王寺(現久世町)の末であった(作陽誌)。 下福田村しもふくだむら 鳥取県:倉吉市下福田村[現在地名]倉吉市下福田下米積(しもよなづみ)村の西、国府(こう)川左岸に位置する。北を八橋(やばせ)往来が通る。拝領高は三三六石余、本免五ツ四分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高三八〇石余、竈数二〇余。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三四三石余、竈数二九。藪役銀八匁を課されていた(藩史)。寛永一〇年(一六三三)当村の太郎衛門は久米(くめ)郡の大庄屋として一〇俵を給されていた(「大庄屋給帳」県立博物館蔵)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by