日本歴史地名大系 「福田庄」の解説
福田庄
ふくだのしよう
現
弘安一〇年(一二八七)一〇月一一日の関東下知状(尊経閣文庫所蔵文書)に「福田庄」がみえるが、これは庄内菅生社の下司職をもつ江尻泰俊が
福田庄
ふくだのしよう
福田庄
ふくだのしよう
福田庄
ふくだのしよう
東大寺上座威儀師の慶寿がその私領田の所当加地子分を東大寺に花厳会免田として寄進することによって成立した荘園のうちの一である。嘉承二年(一一〇七)の東大寺三綱等解案(東大寺文書)に、
とある。名主職はこれを保留し、子孫に伝えたものである。その所在は
文永六年(一二六九)の福田荘百姓申状(東大寺文書)によると「依数日災旱、作毛損亡」を理由に荘民が花厳会米の減免を要求したのに対し、東大寺は点札によって対処するといった動きもみられた。
福田庄
ふくだのしよう
一方地頭職は観応二年(一三五一)足利尊氏方に荷担、勲功をあげた杉原(椙原)信平に与えられた。
福田庄
ふくだのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報