福田庄(読み)ふくだのしよう

日本歴史地名大系 「福田庄」の解説

福田庄
ふくだのしよう

大聖寺上福田だいしようじかみふくだ町・大聖寺下福田町を中心として加賀市北西部一帯に比定される。庄内に一一郷があり(「北野社家引付」明応二年三月一三日条)、「浜方」と称される地域には一三ヵ村が含まれた(年月日未詳「江沼郡長衆等宛書状案」北野神社文書)。また「北野社家引付」には福田本郷菅浪すがなみ(菅波)敷地しきじ山田やまだ田尻たじり黒崎くろさき、天文九年(一五四〇)分の北野社領山田・菅波算用状(天文九年記)には河崎かわさき作見さくみおか塩浜しおはま・山ノワキなどの地名がみえる。足立の地名もみえるが(永正二年七月一二日「承舜奉書」北野社家引付抜書)、該当地は未詳。京都北野社が領家で、末社の菅生すごう(現菅生石部神社)が現地支配にあたっていた。

弘安一〇年(一二八七)一〇月一一日の関東下知状(尊経閣文庫所蔵文書)に「福田庄」がみえるが、これは庄内菅生社の下司職をもつ江尻泰俊が熊坂くまさか(京都東福寺領)内の兼松かねまつ名を神領と主張し、同寺雑掌の行為を苅田狼藉と幕府に告発したことに対する裁許状で、幕府は先例によって田二町余の上分を社家が入手することは認めたものの、泰俊の訴えを退けている。同下知状には建久六年(一一九五)の下司・内検使連署目録の存在が示されているので、当庄の成立はそれ以前と考えられる。また同下知状によると建永二年(一二〇七)八月一一日の源実朝御教書では、菅生社には在京神主の盛尚がおり、下司職には泰俊の父祖にあたる江尻盛俊が補任され、神主に代わって当庄の実質的経営を行っていたという。さらに寛元元年(一二四三)閏七月の下知状案では当庄地頭狩野忠広の菅生社領有権が確認されていた。しかし非御家人の江尻氏の支配力が強く、江尻泰俊も代官泰久を派遣して兼松名に濫妨を働いた。泰俊がこの相論に敗れ同時に他事により断罪されると、庄内菅浪郷地頭の狩野氏が菅生社神主職を手に入れた。狩野氏は伊豆国狩野かのう(現静岡県修善寺町付近)を本貫とする鎌倉御家人で、承久の乱後福田庄の地頭として入部土着し、江尻氏の失脚によって神主職を掌握し、菅浪郷で領主的基盤を固めることに成功した(→菅浪郷南北朝内乱の初期には敷地・山岸・上木氏らの狩野一族が南朝方に属したこともあるが(「太平記」巻一九)、永和元年(一三七五)八月二七日の足利義満御判御教書(狩野文書)で狩野義茂が「福田本郷壱分地頭職」を、永徳二年(一三八二)八月一〇日の足利義満御判御教書(同文書)で狩野忠家が「福田庄内菅浪郷地頭・公文両職并菅生社神主職」をそれぞれ安堵されている。


福田庄
ふくだのしよう

三加茂町加茂かも付近を中心とする一帯に比定される京都上賀茂社(賀茂別雷社)領庄園。東は金丸かなまる庄、西は稲用いなもち保に接したと推定される。寛治四年(一〇九〇)三好郡三津みつ郷内に成立したとみられる。寿永三年(一一八四)四月二四日の源頼朝下文写(賀茂別雷神社文書)に京都賀茂別雷かもわけいかずち社領四二ヵ所の一つとして「阿波国 福田庄」がみえ、後白河院庁の命令を受けた源頼朝が当庄などに対する狼藉停止と神事用途の備進を命じている。寛治四年七月一三日、賀茂上・下社に不輸田六〇〇余町が供田として寄進され(百錬抄)、同年三好郡三津郷内の地が賀茂社領として立券されており、当庄にあたると考えられる。


福田庄
ふくだのしよう

千保せんぼ川と祖父そふ川の間、近世初頭の福田村、のちの福田七村にあたる。寛元三年(一二四五)四月一七日の公性譲状(妙法院文書)に越中国福田庄とみえ、預所は慶性で、公性の姉である南御方(徳大寺育子か)の報恩用途にあてられており、公性から太政法印(尊教、太政大臣西園寺公相の子)に譲られている。なお「華頂要略」によれば、建暦三年(一二一三)二月に天台座主で青蓮院門跡慈円が後鳥羽上皇皇子朝仁親王に譲渡した門跡領内に、国名不記載の福田庄がみえるが、越中国福田庄かどうかは不明。康永三年(一三四四)七月日の亮性法親王庁解(妙法院文書)に越中国福田庄がみえ、「円実法眼為相伝之私領」とある。


福田庄
ふくだのしよう

東大寺上座威儀師の慶寿がその私領田の所当加地子分を東大寺に花厳会免田として寄進することによって成立した荘園のうちの一である。嘉承二年(一一〇七)の東大寺三綱等解案(東大寺文書)に、

<資料は省略されています>

とある。名主職はこれを保留し、子孫に伝えたものである。その所在は平群へぐり郡一〇条九里(九)・一一条七里(三)・一〇条八里(一)・一〇条一〇里(一)にあった(括弧内は坪数)。これによると、福田庄の所在は、現大字興留おきどめ南部を中心とし、現安堵あんど村大字西安堵などにも及んでいる。

文永六年(一二六九)の福田荘百姓申状(東大寺文書)によると「依数日災旱、作毛損亡」を理由に荘民が花厳会米の減免を要求したのに対し、東大寺は点札によって対処するといった動きもみられた。


福田庄
ふくだのしよう

芦田あしだ町福田を中心とする有地あるじ川流域にあった。建暦三年(一二一三)二月日付の慈鎮所領譲状案(「華頂要略」五五上古文書集五)に「桂林院大僧正門跡譲給領」の一として荘名がみえ、正安元年(一二九九)一一月二一日付伏見上皇院宣案(国会図書館蔵葛川明王院文書)に「近江国砥山庄・備後国福田庄事、任慈鎮和尚貞応遺誡、他□人不可知行門跡領之由、(見)文永 院宣之上者、両庄付(徳)林院、早可有御管領者、新院御気色如此、以此旨可令申入十楽院宮給、(下略)」とある。これらによれば慈鎮の時より青蓮しようれん院門跡領となっていたらしい。

一方地頭職は観応二年(一三五一)足利尊氏方に荷担、勲功をあげた杉原(椙原)信平に与えられた。


福田庄
ふくだのしよう

現在の加茂町加茂中一帯に比定される。加茂・賀茂ともいわれた。寿永三年(一一八四)四月二四日の源頼朝下文案(賀茂別雷神社文書)に「出雲国 福田庄」とみえ、頼朝は後白河院の命令を受けて、京都上賀茂社(賀茂別雷社)領の当庄などに対する武士の狼藉停止を命じている。文治二年(一一八六)九月五日、当庄を知行していた宗遠が上賀茂社への神役を闕怠したため、宗遠は地頭職を解任された。その直後に実法が庄務を押領し供米を抑留したので、同月二六日その乱行停止の命令が下されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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