日本歴史地名大系 「下豊浦村」の解説
下豊浦村
しもとようらむら
安土山の西麓に位置し、北西は
文禄二年(一五九三)の御蔵入目録(芦浦観音寺文書)に「豊浦上村下村」とみえ、合せて高二千石、豊臣秀吉直轄領。元和六年(一六二〇)仁正寺藩領となり、同藩領で幕末に至る。年代は不明であるが、各垣内の高は東村七一一石余・安土村二二九石余・下村六四二石・平井村三三八石余(江南文書)。慶安三年(一六五〇)の家数三六〇、船入二七ヵ所、七ヵ所(同文書)。元禄一三年(一七〇〇)には肥料として干鰯・藻草などを用い、農間に男は藻草取、縄・草鞋作り、女は麻苧つみなどに従事、村内に問屋一軒・商人一二軒、大工・桶屋などで四軒があった(東文書)。享保九年(一七二四)の鳥札運上帳(神田神社文書)では八郎兵衛が大鳥を猟する大札、伝十郎が小鳥札をもっていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報