安土城下(読み)あづちじようか

日本歴史地名大系 「安土城下」の解説

安土城下
あづちじようか

[現在地名]安土町下豊浦しもとようら常楽寺じようらくじ上豊浦かみとようら慈恩寺じおんじ小中こなか、神崎郡能登川のとがわ南須田みなみすだ

天正四年(一五七六)織田信長による安土城築城にともなって、安土山の西および南麓に形成された城下町。当城下の全体像についてはまだ十分に解明されていないが、給人(家臣団)と職人・商人が同一の城下に集住している点で近世城下町の先駆とされ、一方で城下内部では武家屋敷地区と町屋地区の区分が明瞭でないこと、畑地が混在することなどから、中世城下町の形態も多分に残していたといえる。天正九年信長は宣教師バリニャーノに「日本でもっとも優れた職人」(狩野永徳といわれる)に作らせた安土城図屏風を贈っており、うち一隻には当城下が寸分と違わぬように描かれていたが(日本史)、天正遣欧使節の手でローマ教皇の元へ届けられた後(ダニエル・バルトリ編「耶蘇会史」など)、行方不明となり、現在は文献・発掘資料などをもとに旧状を復元する方法がとられている。

〔沿革および城下町の範囲〕

城下建設は築城と並行して始まったとされる。町割がなされる以前の当地一帯は低湿地が多く、埋立てを行いながら徐々に整備されていったものと思われる。守護六角氏の居城観音寺かんのんじ城および同城下石寺いしでらの外港の役割を担った常楽寺湊、豊浦庄積出港でもあったと考えられる下豊浦湊や六角氏の菩提寺であった慈恩寺、同所から石寺に通じる通(景清道と通称)などをうまく城下内に取込んだ。翌五年六月には、一三ヵ条からなる掟(近江八幡市共有文書)を「安土山下町中」に対して下し、法制面からも建設が促されている。天正六年一月尾張国出身の弓衆福田与一の屋敷から出火、この火災の遠因が妻子を尾張に置いたままであることとした信長は、同様に妻子を尾張に置く弓衆六〇名・馬廻六〇名の尾張の私宅を焼払って、合せて一二〇名の妻子を安土へ移住させている(信長公記)フロイスは「日本史」に「城がある一つの新しい都市を造築したが、それは当時、全日本でもっとも気品があり、(中略)位置と美観、建物の財産と住民の気高さにおいて、断然、他のあらゆるまちを凌駕し」「市は一方では長さが二十数里、幅は二ないし三里、ところによっては四里もあり(中略)、市は一里の長さにおよび、住民の数は、話によれば六千を数えるという」などと記す。

城下の中心は安土山西麓、現在の下豊浦・常楽寺一帯であるが、地割遺構や明治の地籍図(安土町役場蔵)や江戸期の村絵図(東家蔵)、天保期(一八三〇―四四)の新田開発図(八幡町史)などにみえる地名をもとになされた研究によれば、さらに南麓の慈恩寺・上豊浦をも含み、後述のように一部は安土山東麓にあたる南須田にまで及んでいたと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の安土城下の言及

【城】より

…戦国大名の城下では,山下の居館の周囲に定期的な会議に集まる家臣たちの宿所や,寺社,御用商人の住居などからなる集落(根小屋,宿)があり,定期市の開かれる町場は,それからやや離れた交通の要地にあるのが普通であった。これに対して安土城下は,山下の宿と市場町が一体となった都市で,楽市楽座などの城下振興政策が実施された。水運の便は,城下の商業活動の上からも重要であった。…

※「安土城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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