日本大百科全書(ニッポニカ) 「下間頼秀」の意味・わかりやすい解説
下間頼秀
しもつまよりひで
(?―1538)
戦国時代の本願寺家宰。父は頼玄、母は伊勢(いせ)氏被官三上員光(みかみかずみつ)の女(むすめ)。法名実英、官途名筑前法橋(ちくぜんほっきょう)。下間家は、宗主家(本願寺)の家政をつかさどる家柄。頼秀は1528年(享禄1)から34年(天文3)まで一族を代表する上座となり、10代宗主証如(しょうにょ)の執奏役についた。31年弟頼盛を派遣し、証如系一門の地位確立のため加賀の蓮如(れんにょ)系一門を征伐した(大小一揆(いっき))。翌年細川晴元(はるもと)の要請により畿内一向衆(きないいっこうしゅう)を率い、畠山義宣(はたけやまよしのぶ)・三好元長(みよしもとなが)を討ったが、やがて晴元と対立、両者は激戦を続けた(天文(てんぶん)一揆)。頼秀は本願寺と晴元政権との和睦(わぼく)の過程で政治責任を問われ35年父弟とともに失脚した。
[金龍 静]