日本歴史地名大系 「与倉村」の解説 与倉村よくらむら 鹿児島県:日置郡吹上町与倉村[現在地名]吹上町与倉湯之浦(ゆのうら)村の北、中原(なかはら)村の東に位置する。伊作(いざく)筋が中(なか)村(現鹿児島市)から伊作峠を越えて当村に入り中原村へ向かう。鎌倉から南北朝期に伊作庄内に伊与倉(いよくら)名がみえるが、これは当地にあたる。伊作庄、日置北(ひおきほく)郷(現日吉町)の下司・名主職をめぐって領家と地頭の争いがあり、正応五年(一二九二)に伊与倉名などは寺田・神田を除いて地頭に去り渡された(同年一一月三〇日「伊作庄日置北郷和与状」島津家文書)。しかし文保元年(一三一七)六月一七日に再び和与が行われ、伊与倉名などの年貢課役の結解を行い究済すること、相論となっている「木庭(こば)山」が伊与倉名内であるかどうか糾明することなどが決められた(「伊作庄日置北郷領家雑掌地頭代和与状」同文書)。 与倉村よくらむら 千葉県:佐原市与倉村[現在地名]佐原市与倉下総台地北部に位置し、北東は牧野(まきの)村。集落は北西の山之辺(やまのべ)村に連なる丘陵地に形成され、水田はおもに香西(かさい)川に流入する水路に沿って北方・東方・南方の谷に広がる。西部を成田道が通る。中世は大戸(おおと)庄に属した与倉郷に比定される。応安元年(一三六八)三月一二日の沙弥寿歓(国分胤詮)証状(房総古文書雑纂)に「下総香取郡与倉村大竜寺、禅宗曹洞派、千葉一族国分氏之瑩域」とみえる。同年三月一五日の沙弥某寄進状(同雑纂)によると、大航慈船西堂を開山とする大竜(だいりゆう)禅寺に「大戸庄内与倉郷」の一五〇貫文が寄進されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by