世木村
せきむら
江戸時代、現日吉町南部を流れる大堰川流域およびその支流中世木川・木住川流域の諸村を総称していい、世木庄ともよんだ。
観応二年(一三五一)の足利義詮下文(佐々木文書)に世木郷の名がみえる。
<資料は省略されています>
応永八年(一四〇一)には将軍義満が京極高光の所領世木村の諸公事・臨時課役・守護役・段銭を免除し、守護使の入部を停止している(同年一一月一四日付「足利義満御判御教書」佐々木文書)。
また世木村の名は「親元日記別録」政所賦銘引付の文明九年(一四七七)一二月八日条にもみえ、世木村はこの頃常徳院領であり、同院の監寺奥延の借物の代りに土倉籾井が下代官職についていたが、奥延の死去に伴い、文明九年常徳院の直務に返された。
世木村
せぎむら
[現在地名]守口市高瀬町一―五丁目・松下町・馬場町一丁目・高瀬旧世木など
馬場村の東に位置し、南は摂津国東成郡般若寺村(現旭区)。古代には茨田郡高瀬郷(和名抄)、中世には小高瀬庄の地域。地名は堰の意といわれ、「行基年譜」の「天平十三年記」に載る「高瀬堤樋 在
茨田郡高瀬里
」に関連するかもしれない。また同書にみえる高瀬橋院は当地にあったと伝え、高瀬橋院の法灯を継ぐという寺がある。なお高瀬橋院が当地にあったとすれば、同じく行基架橋を伝える高瀬大橋(同書)も近辺に架けられていたと推測できる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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