守口市(読み)モリグチシ

デジタル大辞泉 「守口市」の意味・読み・例文・類語

もりぐち‐し【守口市】

守口

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日本歴史地名大系 「守口市」の解説

守口市
もりぐちし

面積:一三・一三平方キロ

府の北東部、淀川左岸(南東岸)に位置し、市域東端をふる川が流れる。北西は淀川を挟んで摂津市、北東は寝屋川市、東は門真かどま市、南は大阪市鶴見区・旭区、西は淀川を挟んで東淀川区。市域は淀川が形成した沖積地でおおむね平坦、市役所所在地の標高が四・七五メートル、低い所では二メートル余で大阪平野低地部のなかでも最低地域に属する。市名は江戸時代、京街道(東海道)の宿として賑い、その後も当地域の中心であった守口町に由来する。

〔原始〕

縄文時代前期(約七千―六千年前)の当市域は海が大阪平野に広く侵入していたため海面下にあった。地理学でいう河内湾Iの時代である。同時代前期末から中期(約五千―四千年前)になると流入する淀川と大和川が三角洲をつくり河内湾が縮小、さらに晩期から弥生時代前半(約三千―二千年前)には砂洲がさらに北に延びて湾口が狭くなり、縮小した水域は河内潟とよばれるような状態となった。当市域の遺跡は現在のところ縄文晩期がいちばん古く、河内潟の時代から歴史が始まったとみられる。生駒山麓からこの低湿地帯へと徐々に人々の移動が始まったのであろう。それはまた水稲耕作伝播の時期でもあった。縄文晩期から弥生時代の遺跡として八雲やくも遺跡(縄文晩期)長池町ながいけちよう遺跡(弥生中期)滝井たきい遺跡(弥生後期)金田きんだ遺跡(弥生後期)西橋波西之町にしはしばにしのちよう遺跡(弥生―古墳時代)などがあり、これらの遺跡は遺物の出土状況からみて集落遺跡と考えられている。なお当地域のこの時代を考える場合、旭区の森小路もりしようじ遺跡との関連が重視される。

〔古代〕

古墳時代前期、河内潟は縮小して淡水湖(河内湖)と化し、七世紀後半から八世紀にかけての頃にはさらに干潟化が進んでいくつかの湖沼となっていた。その頃淀川は現在の寝屋川と古川の川筋を通ってこれらの湖沼に流入、湖沼群の末端は現淀川筋をとる淀川の一分流と合体して大阪湾に流出していたと考えられている。河内湖の時代、当地域の耕地の拡大開発に大きく寄与したのが、仁徳天皇の一一年に造られたと伝える茨田まんだ堤である(寝屋川市の→茨田堤。この堤の位置については諸説あるが、淀川下流地域の川中島を囲む、いわゆる囲堤(輪中)の大規模なものと考えられ、旧三郷さんごう村域はその堤内といわれる。この築堤により当市域および周辺地域の水系が整備され、農業生産力の一大飛躍をもたらしたものと推測される。

当地は立地条件から古くより水陸交通の要所であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「守口市」の意味・わかりやすい解説

守口〔市〕
もりぐち

大阪府中部,淀川左岸の市。 1946年守口町と三郷 (さんごう) 村が合体して市制。市域の大部分は低湿地であるが,淀川の永禄堤付近はやや高く,その上を通る京街道に沿う中心市街地の守口は,江戸時代宿場町として繁栄。明治以降は宿場町の機能を失ったが,1910年の京阪電気鉄道本線の開通により,大阪市の工業衛星都市として再生した。初期には小規模な鋳物,衣料加工の工場だけであったが,大正末期には紡績工場が進出,現在は電気機械器具の大規模工場が立地。宅地化も著しく,特産の守口ダイコンやレンコン栽培は消滅した。来迎寺,光明寺,佐太神社などがある。中央部を近畿自動車道が縦断,地下鉄谷町線が通る。面積 12.71km2。人口 14万3096(2020)。

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