般若寺村(読み)はんにやじむら

日本歴史地名大系 「般若寺村」の解説

般若寺村
はんにやじむら

[現在地名]旭区清水しみず四―五丁目、鶴見区みどり三―四丁目

東成ひがしなり郡東端の南北に狭長な村で、平安時代以降榎並えなみ庄に属した。西は馬場ばば村と別所べつしよ村、東はつるぎ堤を隔てて河内国茨田まんだ世木せぎ村・南寺方みなみてらかた(現守口市)に接する。河内の野崎のざき観音(現大東市慈眼寺)方面から西進した野崎街道は、当村北端で剣道と合流。馬場村との境より剣堤に沿って剣井路が流れ、下辻しものつじ(現鶴見区)に至る。剣井路に注ぐ当村の井路に西にしかた井路・まつ井路がある。村名ともなった般若寺について、貞和五年(一三四九)一一月二七日付の大徳寺領庄園文書目録(大徳寺文書)に「摂津榎並般若寺寄進状以下拾参通」とあって寺領が大徳寺に寄進されており、また正平一九年(一三六四)三月二五日付の後村上天皇綸旨(同文書)によると、当時大徳寺の末寺で、大徳寺長老に寺田知行が安堵されている。

般若寺村
はんにやじむら

[現在地名]吉松町般若寺

鶴丸つるまる村の西、川西かわにし村の北、川内せんだい川上流右岸に位置し、東部は川沿いに平坦地が開け、東部は黒園くろそん山南東麓の山地・丘陵地である。地内には村名の由来となった古刹般若寺(現廃寺)があった。永禄一〇年(一五六七)一一月島津義久軍は日向小林城(現宮崎県小林市)を攻撃するとみせかけるため、いったん横川よこがわへ至ったあと、引返して般若寺構子木越に発向して、菱刈氏の拠る馬越まこし(現菱刈町)を攻略したという(「箕輪伊賀覚書」旧記雑録、「島津家記」ほか)

般若寺村
はんにやじむら

[現在地名]篠山市般若寺

八上下やかみしも村の北東方、篠山川右岸に位置する。天正六年(一五七八)地内の笹山ささやまに明智光秀軍による八上城攻略の際の付城とした般若寺城跡がある。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に「般若寺村」とみえ、高三五八石余。正保郷帳では田高三三一石余・畠高二六石余。「丹波志」では宗部そがべ郷のうちで、高三五〇石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では畑組で、家数四五・人数一九三。「多紀郡明細記」によれば、山役米二石四斗余のほか薪七一荷余・瓦焼木三六束などを納め、家別五〇・人別二二二、牛一七、氏神八幡宮、浄土宗の正覚しようかく寺、天台宗竜泉りようせん寺などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報