丘処機(読み)きゅうしょき(英語表記)Qiū Chǔ jī

精選版 日本国語大辞典 「丘処機」の意味・読み・例文・類語

きゅう‐しょきキウ‥【丘処機・邱処機】

  1. 中国、金末・元初の道士。字(あざな)は通密。号は長春子。山東棲霞の人。全真教七真人のひとりと仰がれ、教団興隆の基礎確立ジンギスカンの招きに応じて中央アジアを大旅行。その際の記録長春真人西遊記」は、東西交渉史の重要資料。長春真人。(一一四八‐一二二七

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改訂新版 世界大百科事典 「丘処機」の意味・わかりやすい解説

丘処機 (きゅうしょき)
Qiū Chǔ jī
生没年:1148-1227

中国,金代の革新的道教教団である全真教の開祖王重陽の高弟の一人。道士としての称号〈長春真人〉で知られる。西征中のチンギス・ハーン使者を遣わして招いたのに応じて70歳以上の身で1220年出発,22年,今のアフガニスタン北部でハーンに謁見した。ハーンが〈長生の薬はあるか〉と問うたのに対して,〈衛生の道はあるが,長生の薬はない〉と答えた。ハーンとの別れに当たって,彼は道士に対する賦税免除の特権を与えられた。そしてこの強大な政治権力者を背景にして教団の発展に成功した。彼の旅行記として,同行した弟子李志常が記録した《西遊記》があり,13世紀中央アジアに関する中国側史料として第一等の価値をもつ。たとえばサマルカンドについて,モンゴル侵入までの戸数10万余が,戦乱により4分の1に減ったことが記されている。また耶律楚材と韻を合わせた詩も少なくなく,本国における道教対仏教の争いとはかかわりなく,両者の西域での友好を示している。
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百科事典マイペディア 「丘処機」の意味・わかりやすい解説

丘処機【きゅうしょき】

全真教

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「丘処機」の意味・わかりやすい解説

丘処機
きゅうしょき

長春真人

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世界大百科事典(旧版)内の丘処機の言及

【全真教】より

…彼は晩年の7年間,山東地方を中心にして布教活動を行い,七宝会,金蓮会,三光会,玉華会,平等会の5会を結成し,いずれも三教の名を冠した。そして,この布教活動の結果,馬丹陽,譚長真,劉長生,丘処機(長春真人),王玉陽,郝広寧(かくこうねい),孫不二の七真と呼ばれる高弟を得た。このうち,馬丹陽(1123‐83)は王重陽なき後,中心になって教団の勢力拡張に努め,陝西地方において急速に教勢を伸ばした。…

【道蔵】より

…その後,政和年間(1111‐17)には《万寿道蔵》5481巻が刊行されて各地の道観に下賜されたが,これは印刷に付された最初の《道蔵》である。金代には《大金玄都宝蔵》6455巻が,次いで元代には全真教の祖師丘処機(長春真人)の発願で《元玄都宝蔵》が刊行されたが,その数7800余巻の多きに達した。その後,道仏論争に敗れた結果,《元玄都宝蔵》は1280年(至元17)に他の道書ともども焼棄され,多くの道書が失われた。…

【ビシュバリク】より

…8~14世紀ころ,チベットなどとの抗争期を含むウイグル~モンゴル時代にこの名のもとで栄えた。13世紀の20年代,この地を訪れた丘処機は,その著《長春真人西遊記》にウイグル王の部族からブドウ酒による歓待をうけた模様を記し,当地の漢人の僧侶,道士,儒者と座談を行い,仏寺竜興西寺を訪れている。モンゴル族の元朝ではジャムチが置かれるとともに屯田もなされ,交通・軍事上の重要な位置を占めた。…

※「丘処機」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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