モンゴル朝初期の政治家。遼の太祖耶律阿保機の子孫であるが,本人は太祖の長子東丹王倍の血を引くことを誇りとする。父の耶律履は金に仕えて尚書右丞まで進んだ。楚材は生後1,2年で父を失い,母楊氏に教育され,金の章宗の代に科挙に1位で合格した。モンゴル軍の侵入に際しては,左右司員外郎として中都(北京)にあり,その陥落にともなってチンギス・ハーンに仕えることになった。ハーンは彼を〈ウト・サカル〉(長い髯(ひげ))と呼び,側近で重用した。1219年,モンゴルの西征にハーンに随行した。しかし戦闘には参加せず,学識にもとづく助言を与えた。例えば冬の雷によってホラズム王の死を,彗星によって金の宣宗の死を,それぞれ予言したり,また一角獣の出現から西征の終結を建言した。河中府(サマルカンド)にあって,飲酒や琴の演奏や詩作など中国的風流を楽しんだ。またハーンに招かれて来た道教僧長春真人(丘処機)と詩の贈答をしている。チンギス・ハーンの死後,後継者の選出が混乱したとき,オゴタイを推して即位させ,みずからは宰相として中国統治に力を注いだ。彼の立場は,中国を遊牧モンゴル族の利益のために利用しようとするハーンとその側近を批判して,中国固有の統治方式を守ろうとするものであった。科挙の実施や税制の改革がその例である。オゴタイの死後,トラキナ皇后の信を得ず,失意のうちに死んだ。著書に《湛然居士集》14巻と《西遊録》1巻がある。
執筆者:勝藤 猛
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モンゴル帝国初期の功臣。字(あざな)は晋卿(しんけい)、諡(おくりな)は文正、号は湛然居士(たんぜんこじ)。耶律氏は遼(りょう)の王族の出身で代々金(きん)に仕えた。楚材は天文、地理、数学、医学、儒教、仏教、道教に通じていた。1215年モンゴル軍が燕京(えんけい)(北京(ペキン))を占領したときチンギス・ハンに降(くだ)ってその政治顧問となり、西域(せいいき)遠征に従った。オゴタイの即位に尽力し、中書令として重用された。金の滅亡後(1234)、華北の土地に適した政策を実施し、軍政と民政とを分離して軍官が民政に干渉せぬようにし、また、税制を整備して帝国の経済的基礎を確立したが、オゴタイ・ハンの死(1241)後は左遷された。詩人、文人としても優れ、文集『湛然居士集』、西域遠征に従った際の見聞記『西遊録』がある。楚材の子の鋳(ちゅう)(1221―85)も世祖フビライに仕えて高官となり、とくに詩人として有名である。
[護 雅夫]
1190~1244
モンゴル帝国初期の文人官僚。遼の王族の子孫に生まれ,父は金の宰相となる。楚材は初め金に仕官したが,1214年モンゴルの攻撃により首都が陥落すると,チンギス・カンに召し出された。19年から中央アジア遠征に随行し『西遊録』を著す。29年から第2代オゴデイに仕え,書記として漢文文書の作成,発給などを担当するとともに,中国に精通した契丹(きったん)人官僚としてモンゴルの中国統治にかかわった。オゴデイの死後は政権から遠ざかり不遇のまま生涯を終えた。
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