耶律楚材(読み)ヤリツソザイ(英語表記)Yē lǜ Chǔ cái

デジタル大辞泉 「耶律楚材」の意味・読み・例文・類語

やりつ‐そざい【耶律楚材】

[1190~1244]モンゴル帝国初期の功臣。あざな晋卿しんけいおくりなは文正。契丹族に属し、りょうの王族の子孫。に仕えたが、チンギス=ハンに降って政治顧問となり、オゴタイ=ハンに信任されて中書令となり、行政制度・税制などの基礎を確立。文集「湛然居士集」、見聞記「西遊録」。

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精選版 日本国語大辞典 「耶律楚材」の意味・読み・例文・類語

やりつ‐そざい【耶律楚材】

  1. 蒙古帝国の功臣。字(あざな)は晉卿。諡(おくりな)は文正。遼の宗室の子孫で、金に仕えたが、金滅亡後、ジンギス=カンの政治顧問となり、つづいてオゴタイの宰相となった。著に「湛然(たんぜん)居士集」など。(一一九〇‐一二四四

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改訂新版 世界大百科事典 「耶律楚材」の意味・わかりやすい解説

耶律楚材 (やりつそざい)
Yē lǜ Chǔ cái
生没年:1190-1244

モンゴル朝初期の政治家。遼の太祖耶律阿保機の子孫であるが,本人は太祖の長子東丹王倍の血を引くことを誇りとする。父の耶律履は金に仕えて尚書右丞まで進んだ。楚材は生後1,2年で父を失い,母楊氏に教育され,金の章宗の代に科挙に1位で合格した。モンゴル軍の侵入に際しては,左右司員外郎として中都(北京)にあり,その陥落にともなってチンギス・ハーンに仕えることになった。ハーンは彼を〈ウト・サカル〉(長い髯(ひげ))と呼び,側近で重用した。1219年,モンゴルの西征にハーンに随行した。しかし戦闘には参加せず,学識にもとづく助言を与えた。例えば冬の雷によってホラズム王の死を,彗星によって金の宣宗の死を,それぞれ予言したり,また一角獣の出現から西征の終結を建言した。河中府(サマルカンド)にあって,飲酒や琴の演奏や詩作など中国的風流を楽しんだ。またハーンに招かれて来た道教僧長春真人(丘処機)と詩の贈答をしている。チンギス・ハーンの死後,後継者の選出が混乱したとき,オゴタイを推して即位させ,みずからは宰相として中国統治に力を注いだ。彼の立場は,中国を遊牧モンゴル族の利益のために利用しようとするハーンとその側近を批判して,中国固有の統治方式を守ろうとするものであった。科挙の実施や税制の改革がその例である。オゴタイの死後,トラキナ皇后の信を得ず,失意のうちに死んだ。著書に《湛然居士集》14巻と《西遊録》1巻がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「耶律楚材」の意味・わかりやすい解説

耶律楚材
やりつそざい
(1190―1244)

モンゴル帝国初期の功臣。字(あざな)は晋卿(しんけい)、諡(おくりな)は文正、号は湛然居士(たんぜんこじ)。耶律氏は遼(りょう)の王族の出身で代々金(きん)に仕えた。楚材は天文、地理、数学医学儒教仏教、道教に通じていた。1215年モンゴル軍が燕京(えんけい)(北京(ペキン))を占領したときチンギス・ハンに降(くだ)ってその政治顧問となり、西域(せいいき)遠征に従った。オゴタイの即位に尽力し、中書令として重用された。金の滅亡後(1234)、華北の土地に適した政策を実施し、軍政と民政とを分離して軍官が民政に干渉せぬようにし、また、税制を整備して帝国の経済的基礎を確立したが、オゴタイ・ハンの死(1241)後は左遷された。詩人、文人としても優れ、文集『湛然居士集』、西域遠征に従った際の見聞記『西遊録』がある。楚材の子の鋳(ちゅう)(1221―85)も世祖フビライに仕えて高官となり、とくに詩人として有名である。

[護 雅夫]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「耶律楚材」の解説

耶律楚材(やりつそざい)
Yelü Chucai

1190~1244

モンゴル帝国初期の文人官僚。の王族の子孫に生まれ,父はの宰相となる。楚材は初め金に仕官したが,1214年モンゴルの攻撃により首都が陥落すると,チンギス・カンに召し出された。19年から中央アジア遠征に随行し『西遊録』を著す。29年から第2代オゴデイに仕え,書記として漢文文書の作成,発給などを担当するとともに,中国に精通した契丹(きったん)人官僚としてモンゴルの中国統治にかかわった。オゴデイの死後は政権から遠ざかり不遇のまま生涯を終えた。

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百科事典マイペディア 「耶律楚材」の意味・わかりやすい解説

耶律楚材【やりつそざい】

モンゴル帝国初期の重臣。の王族の子孫,代々朝に仕えた。1215年チンギス・ハーンに降伏し,その政治顧問となり,西域遠征に従った。オゴタイ・ハーンの即位に尽力,宰相として,中国経営の基礎を築く。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「耶律楚材」の意味・わかりやすい解説

耶律楚材
やりつそざい
Ye-lü Chu-cai; Yeh-lü Ch`u-ts`ai

[生]1190
[没]1244
モンゴル帝国初期の功臣,文学者。字,晋卿。王室の一族で,父はの重臣耶律履。初め金に仕えたが,その滅亡後はモンゴル帝国の太祖チンギス・ハンに招かれ政治顧問となり,太宗オゴデイにも信任されて宰相となり,内政に貢献した。早くから文学,天文,暦法,医薬を学び,モンゴルに中国文化の影響を与えた。また詩文にすぐれ,その詩は初期元詩中一頭地を抜く。チンギス・ハンとともに西征した旅行記『西遊録』およびその際詠んだ詩は,歴史,地理,風俗の貴重な資料となっている。詩文集『湛然居士集』 (14巻) 。

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旺文社世界史事典 三訂版 「耶律楚材」の解説

耶律 楚材
やりつそざい

1190〜1244
モンゴル帝国初期の政治家
遼の王族の出身。儒学・仏教・道教に通じ,天文・地理・数学・医学などの諸学にすぐれた。金に仕えたが,金滅亡後はチンギス=ハンの政治顧問となり,ついでオゴタイ=ハンに重用されてモンゴル人の中国統治に貢献した。財政家としてもすぐれた手腕を示し,また詩人としても傑出していた。

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