下田原村(読み)しもたわらむら

日本歴史地名大系 「下田原村」の解説

下田原村
しもたわらむら

[現在地名]河内町下田原

大塚おおつか新田村の北に位置する。中央部に下田原古新田村・広表ひろもて新田村・下田原新々田村が島のように南北に細長く存在し、その西側を田原道が走る。古くは上田原村を含めた一帯を田原と称していた。伝法灌頂記(天文二二年写、叡山文庫)内題下書に、応永三年(一三九六)八月「野州田原談所」で醍醐俊海僧都の口授を記したとある。弘治三年(一五五七)一〇月晦日の秀継授秀寿許可印信案(西方寺文書)には「宇都宮田原西方寺之道場」とあり、また山城醍醐寺の尭雅は元亀二年(一五七一)三月二五日と同四年三月一三日、「田原密興院」において印可を与えている(「尭雅僧正下向記録」醍醐寺文書)


下田原村
しもたんばらむら

[現在地名]中富町下田原

上田原村(現下部町)の西、鴨狩津向かもがりつむぎ(現六郷町)から南へ一五―一六町の所に位置する。西境に富士川を臨み、巨摩郡西河内にしかわうち切石きりいし村に対する。近世には八代郡東河内領に属した。小名に深町ふかまちかみやまがある(甲斐国志)。慶長古高帳では高一〇三石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版の三郡村高帳では高二〇四石余。文化(一八〇四―一八)初年の家数一〇一・人数四〇三、馬一〇(甲斐国志)。富士川西岸の八日市場ようかいちば村に対し、東岸では当村が川東近郷の廻米の米納検札、駿河国岩淵いわぶち河岸(現静岡県富士川町)への川下げ業務を担った。下田原河岸の付船は元河岸である黒沢くろさわ河岸(現鰍沢町)に統轄されていた。


下田原村
しもたわらむら

[現在地名]中津村下田原

けんじよう山の北方、日高川が大きく湾曲する地にある。東は小谷こたに峠を越えて熊野川くまのがわ(現美山村)に、西は螳螂かまきり峠を越えて高津尾たかつお村。北東上田原かみたわら村、南は小釜本こかもと田尻たじりの両村。慶長検地高目録では村高九八石余、小物成九斗一升五合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によれば、田畑一一町二反余で高一〇〇石余、家数三三(うち本役六、半役二、無役二一、庄屋・年寄各一など)、人数一三〇、牛八、馬二、鉄砲三、御蔵一。


下田原村
しもたわらむら

[現在地名]広瀬町菅原すがはら

飯梨いいなし(布部川)山佐やまさ川が合流する地点の東側に位置し、牧谷まきだに村から来た道が当村を経て南方菅沢すげさわ村・宇波うなみ村に至る。正保国絵図に村名がみえ、慶安四年(一六五一)の下田原村地詰帳写が伝存する。明治八年(一八七五)菅沢村と合併し菅原村となる。菅原村は「郡村誌」によると田六〇町四反余・畑三町九反余・宅地四町三反余・山林七四七町八反余、戸数一〇六・人数四六三、牛五八・馬二。物産は酒・紙・炭。


下田原村
しもたわらむら

[現在地名]白峰村下田原

しま村の北西に位置し、集落は手取川支流の下田原川沿いにある。「改作所旧記」元禄一六年(一七〇三)の項に「下太良村者、古名下田原村と書歟」とあるが、享保四年(一七一九)の村名替覚(同書)によると、貞享(一六八四―八八)頃に下太郎から下田原に改称したと伝える。越前国正保郷帳には下田原村とみえ、畑高三石余。元禄一一年の十八ヶ村高小物成帳(斎藤文書)では免七ツ九歩八厘、家数一三、小物成は夫銀三七匁余・夫綿銀二〇匁余・夫糸代八匁余。文久三年(一八六三)の白山麓十八ヶ村由緒控(金沢市立図書館蔵)による高三石余、畑一町。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android