中須賀村(読み)なかすがむら

日本歴史地名大系 「中須賀村」の解説

中須賀村
なかすがむら

[現在地名]五日市町中地なかじ

東南部は山地で、ほぼ中央を河内こうち川、東部をその支流石内いしうち川が流れる。北および西へ向けた平地集落が展開。村内には寺地てらじ口和田くちわだ上河内かみごうち・石内・高井たかいの各村の飛地が入交じる。村名について「芸藩通志」は「昔は池田中須賀村と称す、此地も故海湾の中洲なりし故、かく名つくといふ」と記す。

嘉禎四年(一二三八)四月一七日付の伊都岐島社廻廊員数注進状案(新出厳島文書)や宝徳二年(一四五〇)四月付の厳島社神主藤原教親申状案(巻子本厳島文書)などにみえる「中洲別苻」を当地に比定する説もある。天正一八年(一五九〇)一〇月四日付の佐西郡五日市村内打渡坪付(野坂文書)に「中すか」があり、戦国末期には五日市村に含まれたと考えられる。


中須賀村
なかすかむら

[現在地名]宇佐市江須賀えすか

沖洲おきのす村の南、駅館やつかん川下流西岸の三角洲上にある。南・西は江島えしま村。中世江島別符の内。同別符の港で駅館川河口に開けた江島(近世には中須賀湊)を中心に発展した。永享五年(一四三三)一二月一三日の宇佐宮寺造営并神事法会再興日記によると応永二五年(一四一八)から始まった大内盛見による宇佐宮再興社殿造営工事で、材木運送船などの「江島着津」が確認できる。また津の近くに宿所もあったのであろうか、年未詳の某条書(永弘文書)に「江島御宿所」がみえる。

近世領主変遷住江すみのえ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳では高二五六石余、人数三四〇、百姓二四(うち庄屋一)・牢人二、牛一四・馬五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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