五日市村(読み)いつかいちむら

日本歴史地名大系 「五日市村」の解説

五日市村
いつかいちむら

[現在地名]五日市町五日市二―七丁目・駅前えきまえ一―三丁目・新宮苑しんぐうえん旭園あさひえん海老山かいろうやま町・中央ちゆうおう一―七丁目・吉見園よしみえん藤垂園とうすいえん・五日市

皆賀みなが村の西から南にかけて流れる八幡やわた川と、西のおかした(三筋川)の間に位置し、南の東半部は瀬戸内海に面する。ほぼ中央に殿との山があるほかは、ほとんどを平地が占める。海岸近くを通る山陽道沿いに人家が並び、現在、八本の街道松が残る。享和二年(一八〇二)に尾張の商人菱屋平七が著した「筑紫紀行」に、廿日市はつかいちの町から「浜辺に出て、浪打際を三十丁計行けば五日市村、人家百軒計道の北に町を成して、みちの南は塩浜なり、十丁余りゆけば八幡川、土橋の長さ二十間計なり」とある。村名は中世の定期市に由来する。

地名は「房顕覚書」の永正五年(一五〇八)頃の記事に「五日市」とみえる。天正一八年(一五九〇)一〇月四日付の佐西郡五日市村内打渡坪付(野坂文書)には「中すか」「水長」の地名がみえ、当時は中須賀なかすが・皆賀を含んでいたと考えられる。なお「房顕覚書」に厳島社領分として記されている。永正五年頃から始まる厳島社神主職の継承争いでは、当地が度々その戦場となり、「房顕覚書」の同一二年一一月、天文一〇年(一五四一)四月の記事にその様子がみえる。

五日市村
いつかいちむら

[現在地名]あきる野市五日市

多摩川の支流あき川の左岸にあり、東は舘谷たてや村、西は小中野こなかの村、南は秋川を挟んで小和田こわだ村に接する。天正二年(一五七四)八月一一日の讃岐用人回状写(風土記稿)に五日市とあり、讃岐用人が秋川流域の各村当番衆に役所への集合を命じたものであるが、文言は近世的で検討を要する。当地は秋川の渓口に位置する典型的な谷口集落で、中世末には上流山間の檜原ひのはら(現檜原村)と下流の秋留あきる台地の郷村との交易の場として五の日に定期市が開催された。この定期市が近世の五日市村の基礎となった。五日市とその周辺は鎌倉時代以降、武蔵七党のうち西党小宮氏の支配下にあり、戦国期には滝山たきやま(現八王子市)の大石氏、ついで小田原北条氏の支配をうけていた。田園簿に村名がみえ、田四〇石余・畑二六三石余で幕府領、ほかに八幡領一〇石。寛文七年(一六六七)検地帳(森田家文書)では田四町七反余(うち上田一町六反余)・畑二九町九反余・屋敷二町九反余、名請人一五六(うち屋敷持八四)、小中野・留原ととはら入野いりのなど五ヵ村からの入作百姓三八。このうち漆畑は四反七畝余で、同八年の年貢永四一貫九二六文のうち漆永二八貫八四〇文(小桶二〇六盃)であった(森田家文書)元禄郷帳では高三一〇石余。

五日市村
いつかいちむら

[現在地名]安代町 浅沢あさざわ

荒屋あらや村の北、安比あつぴ川に目名市めないち川などが合流する平地と山間に位置し、西は目名市村、北は岩屋いわや村。正保国絵図に村名があり、高一四八石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高二五石余、七ヵ年平均の免は一ツ八分六厘。元禄十郡郷帳による〆高は田方二一二石余・畑方一〇〇石余で、当村に目名市村が入るとある。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)では蔵入高一七三石余、館があり小柳田こやなぎだ有屋野ありやのの字名が記される。「邦内郷村志」では蔵分一七三石余、家数三四・人数一六一、馬九四で、「多漆工・木地挽」と記される。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数四四、うち本村二八で、枝村は川原かわら八・下町したまち三・さわ四・繋沢つなぎさわ一。

五日市村
いつかいちむら

[現在地名]岩手町五日市

北上川西岸に位置し、東は沼宮内ぬまくない村、西と南は久保くぼ村。元和八年(一六二二)一一月一九日の南部利直代官申付状(参考諸家系図)に「五日市」とある。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に蔵入高三六一石余、七ヵ年平均の免二ツ四分七毛とある。元禄十郡郷帳では沼宮内村に入るとある。「邦内郷村志」では蔵分二九三石余・給分七石余、家数四一、馬一〇八。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数五六、うち本村一六で、枝村は苗代沢なわしろざわ七・府金ふかね一一・川原木かわらき四・おいくち一二・鞍懸くらかけ一・小山沢こやまざわ三・橋場はしば一・大葛渡おおくぞわたり一。

五日市村
いつかいちむら

[現在地名]養老町五日市・滝見町たきみちよう

上方うわがた村の東方、牧田まきだ川右岸にある。同川は永禄九年(一五六六)の大洪水で当村の北あたりで二筋に分流したという。九里半街道が通り、「新撰美濃志」は「むかし月毎の五日に市のたちし里」と記す。文禄三年(一五九四)の豊臣秀次朱印知行目録(寺西文書)に「濃州滝郡五日市村」とあり、当村七四石余のほか合せて一千石が寺西新五郎に宛行われている。慶長郷帳には五日市場いつかいちば村とみえ、高七七石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。

五日市村
いつかいちむら

[現在地名]茨木市五日市一―二丁目・五日市緑いつかいちみどり町・畑田はたけだ町・松下まつした町・田中たなか町・上穂積かみほづみ四丁目・上野うえの町・耳原みのはら一―二丁目・三咲みさき

畑田村の北にあり、茨木川左岸の自然堤防上に集落を形成。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図に村名がみえ、元和初年の摂津一国高御改帳には高槻藩内藤信正領の「五日市・うしとら・うのへ・くらかいち・三宅・小つほ井」二千二八六石余がみえる。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳には「五日市村」とあり高二九七石余で、京都所司代板倉重宗領。

五日市村
いつかいちむら

[現在地名]西山町五日市

北は新保しんぼ村、東は北野きたの村・内方うちかた村、西は滝谷たきや新田(現刈羽村)、南は井岡いのおか(現刈羽村)。「温古之栞」に伝える長嶺ながみねの山田家文書に、大永六年(一五二六)足利義晴が越後国守上杉定実に命じて定めたという三島さんとう長橋ながはし庄内物部もののべ神社社領三一ヵ村のなかに、五日市は「五日市場」、付近の十日市とおかいち(現刈羽村)は「十日市場」とある。

五日市村
いつかいちむら

[現在地名]山陽町正崎しようざき

尾谷おたに村の南、すな川左岸の平地部にある。金川かながわ(現御津郡御津町)から西大寺さいだいじ(現岡山市)に通じる道筋にあたる。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)葛木かつらぎ庄に村名がみえる。「吉備温故秘録」は鳥取ととり庄の村とする。寛永備前国絵図では高四八九石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高五四七石余。貞享元年の荒などを引いた残高五二五石余。享保六年(一七二一)には田畠二八町四反余、家数二二・人数一一五(備陽記)

五日市村
いつかいちむら

[現在地名]遠野市土渕町土渕つちぶちちようつちぶち

松崎まつざき村の南東、土淵つちぶち村の南西にある。さるいし川の支流小烏瀬こがらせ川の流域に位置し、村内を五日市川が流れる。大槌おおつち街道が白岩しらいわ村から土淵村に向かう。倭文しどり神社の文殊堂に享禄五年(一五三二)五月付の代官平之治継が納めた順礼札(岩手県金石志)があった。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、五日市村の高七二石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。

五日市村
いつかいちむら

[現在地名]倉敷市五日市

中帯江なかおびえ村の西に位置する。南前面が海であった頃、物資の集散地として五の日に市が立ったので地名となったという。南隣には二日市ふつかいち村がある。寛永五年(一六二八)庭瀬藩主戸川逵安の四男安利が分知されて以後、明治に至るまで旗本帯江戸川領(「寛政重修諸家譜」「備中村鑑」など)

五日市村
いつかいちむら

[現在地名]新井市五日市

矢代やしろ川左岸、東は四ッ屋よつや村、西は梨木なしのき村。村域内にしょうじ番所ばんしよ稲荷海道いなりかいと内海道うちかいとの小字名がみられ、交通の要衝であったことを想像させる。正保国絵図には村名がみえないが、その後の郷帳類に名前の出ない四日市村があり、当村をさすと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報