串良院
くしらいん
現串良町と東串良町にかけての東流する肝属川北岸と同川支流串良川流域に比定される。「和名抄」所載の姶羅郡串占郷の後身とされる串良院が島津庄に寄進され、その寄郡となったものであろう。伴姓肝付氏一族の北原氏が串良院弁済使に任じられ、現細山田の北原にあったなどとされるが(「串良郷土誌」など)、史料からは確認できない。大隅国建久図田帳には島津庄寄郡として串良院九〇町三段二丈がみえる。串良院を含む島津庄大隅方の惣地頭は島津忠久であったが、建仁三年(一二〇三)九月四日比企氏の乱に連座して改易されるに至った(吾妻鏡)。同年一一月一〇日島津庄政所は前地頭忠久に押領された串良院などの弁済使得分米を庄官義広(富山氏一族か)の沙汰として京都に運上せしめ、弁済使職の由緒については早く参上して訴えるよう命じている(「島津庄政所下文」肝付文書)。なおこの下文では、近世串良郷域に含まれる小原別符と柏原別符(現東串良町)が当院とは別に記されており、両別符は立地条件または開発段階の相違により島津庄寄郡として別個に掌握されたか、またはすでに串良院より分出していたのであろうか。文永八年(一二七一)七月一六日の島津庄留守沙弥某下文(志々目文書)には串良院地頭代として馬入道道西なる人物がみえる。この道西は「奉為領家御家、成悪之仁也」で串良院地頭代であった五、六年間に新儀の非法を働き、その後中郷(現宮崎県都城市か)地頭代の時は多年年貢米を抑留、文永八年当時は救二院(現志布志町)地頭方沙汰人として非法を行っていた。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)では、串良院九〇町三反二丈には九丈三寸四分の石築地役が課されていた。
正中年間(一三二四―二六)には津野四郎兵衛尉が串良院地頭であったといい(「三国名勝図会」など)、南北朝期に津野氏は肝付氏に対抗して松崎城を築いて松崎某に守らせ、自身は白寒水に城を築き居城としたという(「串良旧領擾乱記」など)。建武元年(一三三四)七月三日島津庄日向方南郷(現末吉町)で濫妨狼藉を働いた北条氏の一族とその家臣らのなかに津野四郎兵衛入道父子五人や松崎平次郎・串良弁済使孫六がいた(同年七月日「島津庄謀反人交名注文」旧記雑録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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