日本歴史地名大系 「丸子庄・丸子保」の解説 丸子庄・丸子保まりこのしよう・まりこほ 東京都:大田区丸子庄・丸子保両者の関係は不明だが、多摩川沿岸の現大田区にあった近世の下丸子(しもまるこ)村、現神奈川県川崎市中原(なかはら)区にあった上丸子(かみまりこ)村・中丸子(なかまりこ)村が遺称地で、同じく川崎市中原区・幸(さいわい)区にあった平間(ひらま)村を含んでいた。近世には下丸子村は左岸、上丸子村・中丸子村は右岸にあったが、「風土記稿」はかつて多摩川は下丸子村の北を流れ、三村とも右岸にあって橘樹(たちばな)郡に属したと記している。同書に載る下丸子村の小名に北古川(きたふるかわ)・南古川・中堀(なかぼり)などがあり、多摩川本流が下丸子村の北を流れていた可能性はある。 丸子庄・丸子保まりこのしよう・まりこほ 神奈川県:川崎市丸子庄・丸子保現中原(なかはら)区上丸子(かみまるこ)・上丸子山王(かみまるこさんのう)町・上丸子八幡(かみまるこはちまん)町・上丸子天神(かみまるこてんじん)町・丸子通(まるこどおり)・新丸子(しんまるこ)町・新丸子東(しんまるこひがし)・中丸子(なかまるこ)・上平間(かみひらま)、幸(さいわい)区下平間(しもひらま)、東京都大田(おおた)区下丸子(しもまるこ)一帯にあった。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)一一月一〇日条によれば挙兵に成功した源頼朝が下総国の豪族葛西清重の家に泊まった際、恩賞として「武蔵国丸子庄」が清重に与えられたとみえる。当時、頼朝の支配下にあったわけであるが、それ以外の荘の本家・領家の名などは不明。南北朝時代になると「丸子保」の名が現れる。応安五年(一三七二)二月一五日の仍海寄進状(県史三)によれば、足利義詮の菩提を弔うために「武蔵国丸子保平間郷内知行分半分但除寺社」が鎌倉円覚寺に寄進されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by