日本歴史地名大系 「土師郷」の解説
土師郷
はじごう
「和名抄」伊勢本・東急本は「波之」と読む。同書高山寺本は誤って当郷を
土師郷
はにしごう
土師郷
はにしごう
「和名抄」(刊本)にみえ、高山寺本は「土部」とする。両本とも訓を欠く。土師郷は諸国にあり、「波迩之」(和泉国、高山寺本)・「波尓之」(和泉国・上野国、刊本)・「反之」(備前国、刊本)・「波之」(阿波国・筑前国、刊本)と訓じられる。現福知山市に土師の地名が遺存し土師郷の地とされるが、これは「はぜ」といいならわされる。ハニシ―ハシ―ハジ―ハゼと転訛したものであろう。
土師郷は寛治五年(一〇九一)一一月一五日付丹波国天田郡前貫首丹波兼定寄進状(松尾大社東家文書)に
土師郷
はにしごう
「和名抄」にみえるが、諸本ともに訓はない。諸国に同名郷が多く、丹比郡の西に隣接する和泉大鳥郡の土師郷には「波迩之」(高山寺本)・「波尓之」(東急本)の訓がある。「はじ」ともいう。天平勝宝九年(七五七)四月七日付の西南角領解(正倉院文書)に、「西南角領解 申画師等歴名事」として「合弐拾参人」があげられるが、そのなかに
がいる。土師里は土師郷と同じであろう。その位置は明確ではないが、前述のように隣接する大鳥郡に土師郷があり、また「新撰姓氏録」(和泉国神別)に土師宿禰・土師連がみえることにより、丹比郡のうち大鳥郡に接する
土師郷
はじごう
「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の和泉国大鳥郡・上野国那波郡・阿波国名西郡などの土師郷には「波迩之」「波尓之」「波之」などの訓が付されている。藤原宮跡出土木簡に「下毛野国足利郡波自可里鮎大贄一古参年十月廿二日」と記載されているので、当郷は本来「はじか」と称されていたと考えられる。木簡の年代は、同時に出土した他の木簡の年紀により大宝三年(七〇三)と考えられている。これに対し、土師郷という表記は、天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日の造東寺司牒(正倉院文書)に、東大寺に給された下野国内の封戸二五〇戸の内訳の一つとして「足利郡土師郷五十戸」とあるのが初見である。波自可から土師への変更時期を示す史料はないが、和銅六年(七一三)五月二日に出された風土記撰進令では郡名・郷名を好字二字で表記するよう命じられ、神亀三年(七二六)にもこの点が再度指示されており(続日本紀)、また史料上もこの頃から地名を漢字二字で表記する傾向がみられるようになるので、当郷も同じ頃に「はじか」の音をとって「土師」と表記するように改められたのであろう。
土師郷
はにしごう
「和名抄」にみえるが、諸本ともに訓はない。和泉国大鳥郡土師郷について高山寺本・東急本ともに「はにし」の訓を注記している。「はじ」ともいう。「日本地理志料」「大日本地名辞書」「大阪府全志」は郷域を現藤井寺市の
土師郷
はじごう
土師郷
はにしごう
土師郷
はじごう
土師郷
はじごう
土師郷
はじごう
土師郷
はじごう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報