土師郷
はじごう
「和名抄」伊勢本・東急本は「波之」と読む。同書高山寺本は誤って当郷を麻殖郡の項に記す。平城宮跡出土木簡に「阿波国名方郡土師郷土師
広友」とある。当郷の比定については諸説出されている。その第一は「阿府志」で、「此地天神村・芝原・第十・高畠ナトノ地ニアタル菅原清公阿波守ニナリ領地永ク此所姓ノ人残リシナリ」として、天神という地名を菅原氏(土師宿禰)とかかわらせ、飯尾川と吉野川本流に挟まれた平野低湿地帯のうち郡の東部にあたる天神(現石井町)と第十・高畠(現同上)および郡境に接している名東郡側の芝原(現徳島市)一帯に比定する。「阿波志」も「今廃天神村恐此」として「阿府志」とほぼ同じ比定をする。
土師郷
はにしごう
「和名抄」は高山寺本・東急本ともに表記は異なるが「はにし」(波迩之・波尓之)と訓じている。「はじ」ともいう。「和泉志」などによって万代高田・万代赤畑・万代夕雲開・万代金口・万代梅・万代百済・万代西・万代東・土塔・土師(現堺市)の地を郷域とみることができる。郷内の北西部は百舌鳥野の区域であり、河内の古市古墳群(現羽曳野市・藤井寺市)と並ぶ巨大古墳の密集する百舌鳥古墳群が営まれている。郷内には、墳丘長二九〇メートルで同古墳群中で第三位の規模をもつニサンザイ古墳をはじめとし、御廟山・塚廻その他の多数の古墳が存在する。郷内に式内社はない。
古代氏族としては郷名となっている土師氏が代表的である。
土師郷
はにしごう
「和名抄」(刊本)にみえ、高山寺本は「土部」とする。両本とも訓を欠く。土師郷は諸国にあり、「波迩之」(和泉国、高山寺本)・「波尓之」(和泉国・上野国、刊本)・「反之」(備前国、刊本)・「波之」(阿波国・筑前国、刊本)と訓じられる。現福知山市に土師の地名が遺存し土師郷の地とされるが、これは「はぜ」といいならわされる。ハニシ―ハシ―ハジ―ハゼと転訛したものであろう。
土師郷は寛治五年(一〇九一)一一月一五日付丹波国天田郡前貫首丹波兼定寄進状(松尾大社東家文書)に雀部庄(天田郡雀部郷の地)の四至を記して「西限土師郷并奄我」とあって雀部郷の西に位置し、奄我郷に隣していたことがわかる。
土師郷
はにしごう
「和名抄」にみえるが、諸本ともに訓はない。諸国に同名郷が多く、丹比郡の西に隣接する和泉大鳥郡の土師郷には「波迩之」(高山寺本)・「波尓之」(東急本)の訓がある。「はじ」ともいう。天平勝宝九年(七五七)四月七日付の西南角領解(正倉院文書)に、「西南角領解 申画師等歴名事」として「合弐拾参人」があげられるが、そのなかに
<資料は省略されています>
がいる。土師里は土師郷と同じであろう。その位置は明確ではないが、前述のように隣接する大鳥郡に土師郷があり、また「新撰姓氏録」(和泉国神別)に土師宿禰・土師連がみえることにより、丹比郡のうち大鳥郡に接する日置荘村(明治二二年成立)の地域(現堺市)を土師郷にあてる「大日本地名辞書」の説が妥当であろう。
土師郷
はじごう
「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の和泉国大鳥郡・上野国那波郡・阿波国名西郡などの土師郷には「波迩之」「波尓之」「波之」などの訓が付されている。藤原宮跡出土木簡に「下毛野国足利郡波自可里鮎大贄一古参年十月廿二日」と記載されているので、当郷は本来「はじか」と称されていたと考えられる。木簡の年代は、同時に出土した他の木簡の年紀により大宝三年(七〇三)と考えられている。これに対し、土師郷という表記は、天平勝宝四年(七五二)一〇月二五日の造東寺司牒(正倉院文書)に、東大寺に給された下野国内の封戸二五〇戸の内訳の一つとして「足利郡土師郷五十戸」とあるのが初見である。波自可から土師への変更時期を示す史料はないが、和銅六年(七一三)五月二日に出された風土記撰進令では郡名・郷名を好字二字で表記するよう命じられ、神亀三年(七二六)にもこの点が再度指示されており(続日本紀)、また史料上もこの頃から地名を漢字二字で表記する傾向がみられるようになるので、当郷も同じ頃に「はじか」の音をとって「土師」と表記するように改められたのであろう。
土師郷
はにしごう
「和名抄」にみえるが、諸本ともに訓はない。和泉国大鳥郡土師郷について高山寺本・東急本ともに「はにし」の訓を注記している。「はじ」ともいう。「日本地理志料」「大日本地名辞書」「大阪府全志」は郷域を現藤井寺市の道明寺を町名とする地に比定する。中世の郡界変遷によって古市郡に含まれた誉田(現羽曳野市)の北半部も、もと当郷に属したとみてよい。当郷には土師寺を古名とする道明寺や土師氏の祖を祀る土師神社があり、土師氏の集住するところであった。同氏は「日本書紀」垂仁天皇三二年七月条その他の諸史料に明らかなように、古墳築造をはじめとする喪礼にかかわる職掌をもつ氏族であった。同氏が大和佐紀盾列古墳群、同馬見古墳群、和泉百舌鳥古墳群の近傍に分布し、土師郷の土師氏が古市古墳群(現羽曳野市・藤井寺市)に接して居住していることはこれを示す。
土師郷
はじごう
「和名抄」邑久郡土師郷の郷名を継ぐ中世郷。土師を遺称地として、一帯に推定される。康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」に「邑久郡土師村」とみえ、同村の法者太夫コンカラが六月二八日に「かふぬの」(紅布か)三反で幡一本を調えるとある。貞治五年(一三六六)将軍足利義詮は越中佐味庄(現富山県下新川郡朝日町)にかえ、「土師郷」を万寿寺(現京都市東山区)に寄進した(京城万寿禅寺記)。応永二五年(一四一八)京都東寺造営棟別銭が賦課され、当郷は異議なく納入している(同年八月日「備前国棟別銭注文案」東寺百合文書)。
土師郷
はにしごう
「和名抄」高山寺本には緑野郡の最後に記載され訓を欠き、東急本は保美郷の次に載せ「波尓之」と訓を付す。「上野国神名帳」の緑野郡に土師明神がみえ、現藤岡市本郷の土師神社にあてられる。土師明神は土師部が氏神として祀ったもので、土師部が集住していたことを意味する。同社および東方の地形は、もと神流川が大きく湾曲して流れて丘陵を浸食し、段丘の先端は傾斜地となり南面している。この傾斜地を利用して登窯が東西方向に約四メートル間隔で数十基確認されている。
土師郷
はじごう
「和名抄」諸本とも訓を欠く。郷名は土師部に由来するとされる。年月日欠の山階寺僧正基童子貢進解断簡(正倉院文書)に「土師麻呂年拾捌因幡国益上郡大江里戸主土師首麻呂之戸口」とある。現郡家町の土師百井を遺称地とし、私都川下流域の同町旧賀茂村・国中村地区一帯に比定される。
土師郷
はじごう
「和名抄」諸本とも訓を欠く。郷名は土師部に由来するとされる。「時範記」承応三年(一六五四)三月二七日条によれば、任国因幡から帰京する国司平時範は同日巳刻国府(現国府町)を発し、申刻智頭駅(現智頭町か)の仮屋に着いた。
土師郷
はじごう
「和名抄」東急本に「反之」の訓がある。現邑久郡長船町土師を中心とした地域と推定されている。推定郷域内には式内社の片山日子神社や、古墳時代後期の群集墳である土師茶臼山古墳群・甲山古墳群のほか、土師器生産の工房跡と考えられている細工原遺跡などがある。
土師郷
はじごう
「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「波自と訓ムべし」とする。比定地未詳。山本郡には竹野郡・生葉郡と連続する良好な条里地割が残されており、「和名抄」に記載された山本郡五郷のうちには、こうした地域に比定できるものもあると推定されるが、遺称地名なども確認できず、それぞれの比定地を特定することは難しい。
土師郷
はじごう
「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、伊勢本・東急本・元和古活字本の訓「波之」から「はじ」と読む。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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