主権論争(読み)しゅけんろんそう

改訂新版 世界大百科事典 「主権論争」の意味・わかりやすい解説

主権論争 (しゅけんろんそう)

日本近代史上主権論争といわれるものとして,次の三つがある。(1)自由民権期に行われた主権の概念と所在をめぐる論争。主権問題は私擬憲法作成運動のなかで注目されるようになり,1881年9月の熊本の紫溟会主旨書,82年1月の《東京日日新聞》社説〈主権論〉,3月の立憲帝政党綱領などの天皇主権説の公表に対し,民権派が新聞・雑誌上で批判を加え,また民権派相互間でも批判しあうかたちで論争が行われた。イギリス型の立憲君主制を是とする立憲改進党系の論者は総じて〈主権は君主と人民の間にあり〉とし議会主権説などを主張。自由党系の多くも程度の差はあれ同様の見解であった。これに対し《東京日日新聞》は〈立憲君主制も君主政体の一種であり,ゆえに主権は君主に帰属する〉と主張。一方,主権在民説は大石正巳,中江兆民,植木枝盛など一部の自由党員が主張するにとどまった。論争の背景には欽定憲法に反映させようとの期待があったがならず,民権運動の衰退とともに論争も消滅した。(2)1912年3月美濃部達吉が天皇機関説に立つ《憲法講話》を刊行,これを天皇主権説の上杉慎吉が批判したことから始まり,翌年まで公法学界を中心に行われた明治憲法解釈をめぐる論争。上杉・美濃部論争ともいう。これで天皇機関説が優位に立った。(3)第2次大戦後,明治憲法改正に関して民間で行われた論争。政府部内で天皇制存続を主眼とする憲法改正が進められていた45年12月,憲法研究会が国民主権説に立つ〈改正憲法私案要綱〉を発表,以降翌年2月までに個人・政党により種々の改正案が公表されて論争となった。いずれも当時の政府案より進歩的で,GHQの改正指令にも影響を与えた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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