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天皇機関説 てんのうきかんせつ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

天皇機関説
てんのうきかんせつ

美濃部達吉によって主張された学説で,国家を統治権の主体とし,天皇は国家の一機関にすぎないとする明治憲法の解釈のこと。上杉慎吉らの天皇主権説に対して,大正デモクラシー以後,学界,政界で一時支配的な地位にあった。

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デジタル大辞泉の解説

てんのうきかん‐せつ〔テンワウキクワン‐〕【天皇機関説】

明治憲法の解釈において、主権は国家にあり、天皇は法人である国家の最高機関であるとする学説。美濃部達吉らが唱えたが、国体に反する学説として非難され、昭和10年(1935)国体明徴問題を引き起こした。
尾崎士郎長編小説。昭和26年(1951)刊。の事件と二・二六事件を描き、文芸春秋読者賞を受賞。

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百科事典マイペディアの解説

天皇機関説【てんのうきかんせつ】

大日本帝国憲法上の天皇の地位に関する学説。統治権の主体は法人である国家であり,天皇はその最高機関であるとする。美濃部達吉によって代表され,内閣と議会の地位を強化しようとする意図をもつ。
→関連項目岡田啓介内閣大正デモクラシー天皇制

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世界大百科事典 第2版の解説

てんのうきかんせつ【天皇機関説】

大日本帝国憲法(明治憲法)の解釈をめぐる一学説。美濃部達吉によって代表される。この学説の特色は,〈統治権は天皇に最高の源を発する〉という形で天皇主権の原則を認めるが,しかし同時に天皇の権力を絶対無限のものとみることに反対する点にある。すなわち統治権は天皇個人の私利のためではなく,国家の利益のために行使されるのであるから,国家はその利益をうけとることのできる法人格をもつもの,したがって統治権の主体であり,天皇は法人としての国家を代表し,憲法の条規に従って統治の権能を行使する最高〈機関〉であると規定する。

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大辞林 第三版の解説

てんのうきかんせつ【天皇機関説】

天皇は法人である国家の最高機関であり、統治権は国家にあるとする憲法学説。イエリネックの国家法人説に基づくもので、天皇主権説と対立した。美濃部達吉が主唱。この学説により美濃部は1935年(昭和10)貴族院議員を辞職させられた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

天皇機関説
てんのうきかんせつ

天皇は法人たる国家の最高機関であり主権者ではないとする憲法学説。明治憲法の解釈では、当初、東京帝国大学教授穂積八束(ほづみやつか)らによる天皇主権説が支配的で、藩閥官僚専制支配を合理化した。これに対し、東大教授の一木喜徳郎(いちききとくろう)は、統治権は法人たる国家に帰属するもので、天皇は国家を動かす諸機関のうち最高の地位を占めるものと規定し、天皇の神格的超越性を否定した。もともと一木の継承した19世紀前半の国家法人説は、人民主権説に対し君権擁護の役割を演じたものだけに、一木学説も最高機関天皇の権限を絶対視し、ゆえに一木は、政党勢力との妥協を計るようになった日清(にっしん)戦争後の官僚勢力に重用された。一木門下の東大教授美濃部達吉(みのべたつきち)は、日露戦争後、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたG・イェリネックの学説を導入し、国民代表機関たる議会は内閣を通して天皇の意思を拘束しうるとの説をたて、政党政治に理論的基礎を与えた。京都帝大教授佐々木惣一(そういち)もほぼ同様な説を唱え、1920年代には天皇機関説がほとんど国家公認の憲法学説となった。しかし軍部ファシズムの台頭とともに、35年(昭和10)機関説排撃の国体明徴運動が起こり、美濃部は32年以来の貴族院の議席を去り、その主著は発禁され、天皇機関説は大学の講壇から排除されるに至った。敗戦直後の政府および自由党、社会党の憲法草案はこの学説に基づき構成されたが、日本国憲法の成立により、天皇は最高機関の地位を失い、同時にこの学説も存立の基礎を奪われた。[松尾尊兌]
『家永三郎著『美濃部達吉の思想史的研究』(1964・岩波書店) ▽上山安敏著『憲法社会史』(1977・日本評論社)』

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世界大百科事典内の天皇機関説の言及

【国体明徴問題】より

…1923年の〈国民精神作興詔書〉をうけて開始された全国的教化運動は,すでに最初から,〈国体観念を明徴にする〉というスローガンを掲げていた。こうした二つの方向は,満州事変以後の戦時体制化の過程で,合体しながら攻撃的性格を強め,35年には,憲法解釈としての天皇機関説排撃を突破口として,個人主義,自由主義をも反国体的なものとして否定しようとする国体明徴運動をひき起こすこととなった。まず35年2月の第67議会で貴族院の菊池武夫が美濃部達吉(当時東京帝大教授,貴族院議員)の学説をとりあげ,統治権の主体を国家とし,天皇をその国家の最高機関とする天皇機関説は,天皇の絶対性を否定し,天皇の統治権を制限しようとする反国体的なものだ,として攻撃を開始,これに呼応して院外でも軍部の支持のもとに在郷軍人会や右翼団体などの運動が全国的に展開されることとなった。…

【政友会】より

… 続く岡田啓介内閣も中間内閣として成立したため,政友会はこれを支持せず,入閣した3閣僚は政友会を脱党した。一方,1935年に軍部や右翼が中心となって国体明徴問題がおこると,政友会はこれに同調し,民政党などとともに国体明徴決議案を提出して鈴木総裁みずからが提案説明に立ち,政友会は立憲主義を基礎づける美濃部達吉の天皇機関説を否定するという政党にとっての自殺的行為に踏み出した。政党内閣回復への期待が実現されないままに,36年の総選挙では第二党に転落し,二・二六事件を契機に軍部の発言権がさらに強化される状況を迎えて,党内対立も表面化して混迷を続けた。…

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