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植木枝盛 うえきえもり

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

植木枝盛
うえきえもり

[生]安政4(1857).1.20. 土佐
[没]1892.1.23. 東京
自由民権運動の指導者。土佐藩士植木直枝の子。板垣退助や明六社の影響を受け自由民権運動に加わる。 1876年『猿人政府』が新聞紙条例違反に問われ禁獄。 77年立志社に参加し,のち再興愛国社,国会期成同盟自由党などの運動に板垣の片腕となって活躍する。

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デジタル大辞泉の解説

うえき‐えもり〔うゑき‐〕【植木枝盛】

[1857~1892]自由民権論者。土佐の人。板垣退助をたすけ、国会開設に尽力。急進的な私擬憲法東洋大日本国国憲按」を起草。著「民権自由論」「天賦人権弁」など。→自由民権論

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百科事典マイペディアの解説

植木枝盛【うえきえもり】

自由民権運動の指導者。土佐(とさ)高知藩下級士族の出。板垣退助の演説を聞いて感銘し,政治家を志す。19歳で上京,独学で西洋近代思想を学び,民権活動を始める。1876年専制政府攻撃で禁獄2ヵ月。
→関連項目自由新聞天賦人権論

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

植木枝盛 うえき-えもり

1857-1892 明治時代の自由民権思想家,政治家。
安政4年1月20日生まれ。明治10年立志社に参加,板垣退助のブレーンとして国会開設運動や民権思想の普及につくす。14年「日本国国憲案」を起草した。23年第1回総選挙で衆議院議員となる。明治25年1月23日死去。36歳。土佐(高知県)出身。著作に「民権自由論」「天賦人権弁」など。
【格言など】国は全く民によって出来たものじゃ(「民権自由論」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

植木枝盛

没年:明治25.1.23(1892)
生年:安政4.1.20(1857.2.14)
明治期の自由民権理論家,運動家。土佐国(高知県)高知城下井口村,土佐藩士直枝の独子。廃藩に至るまで藩校致道館に学ぶ。明治6(1873)年,旧藩主山内氏が東京に開設した海南私塾に学んだが,陸軍士官予備門的同校の方針が不満で半年で退学,高知に帰る。時あたかも征韓論政変で下野した板垣退助,林有造,片岡健吉らは帰郷して高知に立志社を設立,自由民権運動を開始した。枝盛は立志社の演説会で板垣らの演説に発奮し,運動への関心を高め,翌年再度上京,板垣邸に書生として寄宿,明六社や慶応義塾主催の演説会を聴取したり読書に耽り,独学で民権思想を吸収,東京の諸新聞に政論を投書するなど言論活動を始めた。9年2月『郵便報知新聞』に掲載された「猿人君主」が讒謗律,新聞紙条例に触れ,2カ月の入獄を経験。10年,帰郷して立志社に入社,西南戦争の最中いわゆる立志社建白を起草した。同年立志社は機関誌『海南新誌』『土陽雑誌』を創刊,枝盛はその編集・執筆に当たり,また演説会で活発な言論活動を展開。愛国社,国会期成同盟,自由党に板垣の片腕的存在として活躍,17年自由党解党以後,高知に戻り県会議員として運動を持続,また『土陽新聞』に拠って健筆を振るい,自由民権思想の普及,運動の拡大に努めた。23年第1回総選挙で高知3区から衆院議員に選出され,自由党土佐派の有力者として活躍したが36歳の若さで急死した。<著作>『植木枝盛全集』全10巻<参考文献>家永三郎『植木枝盛研究』

(福地惇)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

うえきえもり【植木枝盛】

1857‐92(安政4‐明治25)
徹底した民主主義を主張した自由民権家,思想家。土佐藩士出身。1874年板垣退助の演説を聞いて政治に志し翌年上京,明六社の演説会などで啓蒙思想に接した。76年《郵便報知新聞》掲載の投稿〈猿人政府〉により投獄された。77年帰郷して立志社に加入し,立志社建白書の草稿を起草。以後,各地に遊説し,愛国社の再興,国会期成同盟の結成を推進するとともに,土佐州会(地方民会)の議員として活動した。80年有志組織の自由党を結成し,翌年帰郷して立志社のために私擬憲法を起草,10月に上京して最初の全国政党自由党の結成に参加。

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大辞林 第三版の解説

うえきえもり【植木枝盛】

1857~1892) 政治家・思想家。土佐の人。板垣退助らとともに国会開設運動・自由党結成に尽力。著「民権自由論」「天賦人権弁」など。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

植木枝盛
うえきえもり
(1857―1892)

明治前期の思想家、自由民権論者。安政(あんせい)4年1月20日、土佐国土佐郡井口村(高知市)に生まれる。父直枝(なおえ)は土佐藩の中等の藩士。藩校致道館(ちどうかん)で学び、1874年(明治7)板垣退助(いたがきたいすけ)の演説を聞いて政治に発奮した。1875年上京し、明六社(めいろくしゃ)の演説会や慶応義塾の三田(みた)演説会、キリスト教会の説教などを聴講しながら、西洋近代思想の独学に励んだ。1876年『郵便報知新聞』に投書した「猿人政府ひとをさるにするせいふ」で2か月間投獄されたことが民権への志を深め、出獄後『湖海新報』に投書した「自由は鮮血を以(もっ)て買はざる可(べか)らざるの論」では、人民の革命権を主張している。1877年高知へ帰り立志社(りっししゃ)に入り、国会開設を要求した「立志社建白書」を起草し、以後板垣のブレーンとして民権理論の普及と運動の発展に生涯を賭(か)けることになる。1878年愛国社再興のため西日本各地を遊説し、土佐州会の議員に選ばれた。1880年には愛国社の機関誌『愛国志林』の編集、国会期成同盟や第一次自由党(自由党準備会ともいわれる)に参加、1881年には私擬憲法中もっとも民主主義に徹底した「日本国国憲按」を起草し、さらに自由党結成に参画した。1882年には官憲の圧迫に抵抗しながら京都で増税反対の「酒屋会議」を開き、その後も『自由新聞』の編集や遊説など精力的な活動を続けた。自由党解党後の1885年に高知に帰り、『土陽新聞』の編集や高知県会議員として地方自治、婦人解放などに取り組んだ。1890年第1回衆議院議員選挙に高知3区から当選したが、第1議会では、いわゆる土佐派議員の一員として民党敗北に加担し、立憲自由党を脱党した。のち自由党に復帰し、第2回総選挙立候補を準備中の明治25年1月23日東京で没した。平易な文体で民権思想を説いた『民権自由論』、世界政府構想を示した『無上政法論』をはじめ、『天賦人権弁』『一局議院論』『東洋之婦女』『植木枝盛日記』など多数の著作や論説を残している。[松永昌三]
『家永三郎著『植木枝盛研究』(1960・岩波書店) ▽家永三郎編『植木枝盛選集』(岩波文庫)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の植木枝盛の言及

【愛国志林】より

…資金,編集ともに高知の立志社が中心となり,大阪で発行。植木枝盛,永田一二らが編集,執筆にあたり,基本的人権や人民主権を主張。自由民権思想の普及に大きく貢献した。…

【飯田事件】より

…1884年(明治17)12月に起こった自由民権運動の激化事件の一つ。愛知県田原の自由党員村松愛蔵,川澄徳次,八木重治らは同年4月ころから立憲政体の樹立を意図し,人心覚醒のため秘密出版を計画し,飯田の愛国正理社桜井平吉らと連絡をとり,8月には自由党本部の協力をもとめ植木枝盛に草案の起草を依頼した。八木は徴兵され名古屋鎮台の一兵卒であったが,営内で若干の同志を組織し,脱営して合流した。…

【基本的人権】より

…自由民権運動のなかで,民選議会開設の要求とならんで,どんなに人権保障の要求が強かったかは,明治10年代につくられた民間の憲法草案(私擬憲法)にあらわれている。特異な例であるが植木枝盛の作成した〈日本国国憲按〉(1881)には,人民の自由権利を制限する立法の禁止,思想の自由,教授の自由,歩行の自由,拷問の禁止,死刑の廃止,無法に抵抗する権利など斬新な内容の人権規定が多く含まれている。国民のあいだにみられた人権要求は大日本帝国憲法(1889公布)には十分反映されなかった。…

【酒屋会議】より

…そのため地方の酒造業者はその改正を要求し,おりから高まっていた国会開設運動と結んでその実現をはかろうとした。81年5月高知県の酒造業者300余人が減税請願書を政府に提出して却下され,植木枝盛に相談した。これをうけた植木は,全国酒造業者の一大請願運動を計画し,〈日本全国の酒屋会議を開かんとするの書〉を起草し,82年5月1日に大阪で開く酒屋会議への参集を呼びかけた。…

【私擬憲法】より

…この立場の諸案には,比較的早く起草され普及した嚶鳴(おうめい)社,共存同衆の両案(この2案は同系統のもの)や交詢社案の影響を見ることもできるが,元老院国憲案や保守派の福地桜痴(《東京日日新聞》)案にしても同じ立場をとっており,むしろ,議会政治を導入する以上この程度の立憲主義を想定するのが当時の一般的な観念だったと見るべきであろう。これに対して,より急進的な立場として,植木枝盛,内藤魯一,立志社などの諸案には,一院制議会,無制限の人権保障などの特徴をもつ構想が示されている。とくに植木の案には国民の抵抗権や革命権を規定し,連邦制をとり入れるなどの特徴が見られる。…

【自由党】より

…自由党結成の動きは,国会開設運動が全国的に高揚した1880年に始まる。すなわち植木枝盛らから,全国に拡大した運動の組織強化のため,国会期成同盟を改組して自由主義を標榜する政党を組織すべしとする意見が提出される。そして,国会論,財政論の対立に開拓使官有物払下問題が加わって引き起こされた明治14年の政変により,国会開設の勅諭が発布される81年10月に相前後してこの提案は議決され,次いで自由党の盟約・規則の審議が行われた。…

【大アジア主義】より

…のちに出版される菅沼貞風の《新日本図南の夢》,東海散士の《佳人之奇遇》,矢野竜渓の《浮城物語》などは対外発展,海外雄飛ものであった。 植木枝盛は自由民権の立場から,アジア諸民族の自由平等を守るべく,欧米に対する抵抗を正当化し,連帯の必要を説き,世界政府論を掲げた。大井憲太郎は,朝鮮の改革と日本の対外進出を関連させつつ,アジア諸国の〈愛国の心〉と〈自治の精神〉の誘起を図ろうとした。…

【抵抗権】より


[日本]
 ひるがえって,日本の憲政史上,抵抗権の思想は明治期以前にはほとんど見られないようであり,明治以降の憲法理論上も,この思想の発現はきわめて少ない。その中でとくに注目に値する例外は,植木枝盛の《東洋大日本国国憲案》(1881)であり,そこにはアメリカ独立宣言などを範とする,革命権を含む抵抗権規定が見られる(70~72条)。しかし明治憲法体制下で抵抗権が認められる余地はまったくなかった。…

※「植木枝盛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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