明治~大正時代の政党政治家。土佐藩出身。立志社に加盟し、板垣退助(たいすけ)に従って愛国社再興大会に出席。1881年(明治14)馬場辰猪(たつい)らと国友会を結成、さらに自由党の創立にも参画、その常議員、自由新聞社主となるが、板垣の洋行に反対しやがて馬場らとともに脱党した。1888年、後藤象二郎(しょうじろう)を擁して大同団結運動を推進し、雑誌『政論』を発刊するとともに東北、北陸地方に遊説した。1892年朝鮮駐箚(ちゅうさつ)弁理公使となり、防穀令(ぼうこくれい)事件の賠償を強要し、実現した。1896年進歩党の結成に参加し、翌年4月大隈重信(おおくましげのぶ)農商務大臣の下で次官を務めた。さらに1898年自由・進歩両党合同による憲政党の結成にあたっては創立委員となり、隈板(わいはん)内閣には農商務大臣として入閣した。以後、野党の立場にあった憲政本党の幹部として活躍、日露戦争後は非政友合同を画策して官僚派に接近、民党主義をとる犬養毅(いぬかいつよし)と対立した。1910年(明治43)犬養らと妥協して立憲国民党を結成して常務委員となったが、1913年(大正2)憲政擁護運動が高まるなかで脱党し、桂(かつら)太郎の立憲同志会結成に参加して総務となった。1915年第二次大隈内閣の下で大浦兼武(おおうらかねたけ)農商務大臣と対立、彼が内相に転じるのに反対していれられず、それを機に政界を引退、以後禅に没入した。
[宇野俊一]
明治・大正期の政党政治家。土佐藩出身。1874年立志社に入って自由民権運動に参加し,81年馬場辰猪,末広重恭らと国友会を組織。同年の自由党の結成に際して幹事となり,のち《自由新聞》社主をつとめたが,党首板垣退助の洋行に反対し,83年脱党。87年大同団結運動の中心となって各地に遊説。92年には朝鮮駐劄(ちゆうさつ)弁理公使として防穀令事件の強圧的処理に従事した。進歩党の結成,松方・大隈内閣の成立などを画策し,98年憲政党による大隈内閣に農商務相として入閣。憲政本党,次いで立憲国民党の幹部として活動したが,1913年桂太郎の立憲同志会結成に参加し,15年政界を引退。自由・進歩両党間に介在した策士的政治家であった。
執筆者:大日方 純夫
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出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
明治・大正期の政治家 衆院議員;農商務相。
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…日露戦争後は,政友会を与党とする西園寺公望内閣と桂内閣が交互に政権を担当したため,野党の立場を脱却できず党勢は後退,党内動揺の末に07年1月大隈は総理辞任を余儀なくされた。それ以後も,非政友各派を糾合して官僚派に接近しようとする大石正巳ら改革派と,民党主義を堅持しようとする犬養毅ら非改革派との対立は続き,09年に両派の対立が頂点に達した。しかし改革派から日糖事件の連座者を出したことから勢力を失い,両派は妥協して第2次桂内閣に対して野党的立場をとり,10年3月又新(ゆうしん)会,無名会,旧戊申俱楽部の一部と合同して立憲国民党を結成した。…
…交渉は当初から難航し,商人らは対外硬に転じつつあった日本の民党に働きかけて活発な運動を展開した。議会での突きあげをうけた伊藤博文内閣は自由党の大石正巳を公使に派遣,93年5月には外交断絶の最後通告を発して圧力をかける一方,裏面で清国の李鴻章に斡旋を依頼し,紛争中の他の3件の分を含め総額11万余円の金額で妥結した。伝統的な朝鮮の経済循環が開港によって破壊されつつあることを示す象徴的な事件である。…
※「大石正巳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
[1973~ ]プロ野球選手。愛知の生まれ。本名、鈴木一朗。平成3年(1991)オリックスに入団。平成6年(1994)、当時のプロ野球新記録となる1シーズン210安打を放ち首位打者となる。平成13年(...
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