私擬憲法(読み)シギケンポウ

デジタル大辞泉 「私擬憲法」の意味・読み・例文・類語

しぎ‐けんぽう〔‐ケンパフ〕【私擬憲法】

明治13年(1880)前後に民間で作成された憲法草案。植木枝盛うえきえもりの「日本国国憲按」、立志社の「日本憲法見込案」、千葉卓三郎鈴木安蔵らの「五日市憲法草案」など。

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精選版 日本国語大辞典 「私擬憲法」の意味・読み・例文・類語

しぎ‐けんぽう ‥ケンパフ【私擬憲法】

〘名〙 私人の手になる憲法の草案。特に明治一三年(一八八〇)ごろから同二〇年ごろにかけて民権各派によって作られたものをいう。交詢(こうじゅん)社の「私擬憲法案」や、植木枝盛の「日本国国憲按」などがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「私擬憲法」の意味・わかりやすい解説

私擬憲法 (しぎけんぽう)

大日本帝国憲法制定以前に,民間で起草された憲法。官吏が個人的な立場で試草した憲法案もこれに含めることができる。私擬憲法は,明治国家体制形成期における国民の体制観・憲法観を示す貴重な資料である。現在までに発見されている私擬憲法案に,日の目を見ることのなかった元老院国憲案や,帝国憲法の出発点となった岩倉具視の憲法綱領などを加えて表示すると表のとおりである。その中で量質ともに大きな比重を占めるのは民権派の立場に立つ人々の憲法案であり,その意味で私擬憲法は自由民権運動展開の所産と理解してさしつかえない。1880年11月,国会期成同盟大会は各地で憲法案を作成し1年後に持ちよることを決議した。これは,この年の国会開設請願運動からさらに一歩進んで,国民の主導による憲法制定を目ざし,実現すべき国家体制の内容を構想しようとするものであった。各地の民権グループはこの決議に基づいて討論を重ね,憲法私案を作成した。表の私擬憲法案のうち,81年(明治14)に起草または発表されたものが多いのは,そのためである。しかし,政府が明治14年の政変によって憲法欽定の方針を固め,同年10月12日の国会開設の詔勅においても〈憲法私草〉運動に対する弾圧を暗示したため,憲法の持寄り討議は実現することなく,多様な憲法案がそのまま残されることになった。

民権派の憲法案のうちもっとも多いのが,二院制の議会と,議会または国民に対して責任を有する内閣を規定するイギリス流の立憲政治を目ざすもので,国約憲法として君民協議のうえ制定されることを期待する立場である。この立場の諸案には,比較的早く起草され普及した嚶鳴(おうめい)社,共存同衆の両案(この2案は同系統のもの)や交詢社案の影響を見ることもできるが,元老院国憲案や保守派の福地桜痴(《東京日日新聞》)案にしても同じ立場をとっており,むしろ,議会政治を導入する以上この程度の立憲主義を想定するのが当時の一般的な観念だったと見るべきであろう。これに対して,より急進的な立場として,植木枝盛,内藤魯一,立志社などの諸案には,一院制議会,無制限の人権保障などの特徴をもつ構想が示されている。とくに植木の案には国民の抵抗権や革命権を規定し,連邦制をとり入れるなどの特徴が見られる。これらにはアメリカの権利章典やフランスの革命憲法の影響を見ることもできるし,民権派志士の気概の一端を見ることもできる。以上の民権派諸案は,同時に外交権,軍事権,行政権などを中心とする天皇大権を認めるものが多く,全体としては君民共治の理念を基礎としている。一方,欽定憲法と君権主義を基本とする保守的な案は,元田永孚,岩倉具視,井上毅山田顕義などの官僚による諸案であるが,そのなかで井上,山田案のような個人的な私案では,天皇の章の前に国土,国民の章を置き,議会に内閣弾劾権,国政調査権を認めるなど,一般民間私案と共通する立場を残している。このように見てくると,岩倉憲法綱領を出発点とし,伊藤博文らの憲法調査を経て起草制定された大日本帝国憲法が,当時の一般世論の期待や予想からかなり隔絶した方向で進められたことが理解できる。憲法私草の運動は,国民が国家体制の全体を自主的に構想しようとする貴重な体験だったが,これに強い危惧を感じた明治政府が敏速な対抗・抑圧手段をとったために,運動は未熟で不統一な段階を越えないままに,政府主導の帝国憲法の枠組みの中に収斂された。
自由民権
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「私擬憲法」の意味・わかりやすい解説

私擬憲法
しぎけんぽう

(1)明治前期に立憲制樹立を求めて私人が起草した憲法案。「私擬憲法」とは個人が私的に憲法について考えを練るの意味。政府部内の人間が当局者の参考に資するため試案したものと、民間の個人またはグループが作成したものがあるが、普通は、立憲制樹立を要求した自由民権運動の展開のなかで、民権各派が自らの国家構想を同志や国民に訴えるために起草した憲法案を、私擬憲法とか私草憲法という。政府部内では、1873年(明治6)に青木周蔵(しゅうぞう)が木戸孝允(たかよし)に委嘱されて起草したもののほか、西周(にしあまね)、井上毅(こわし)、山田顕義(あきよし)らの諸案がある。民間の憲法案では、民権運動の高揚した79年から81年にかけて、民権各派が作成したものが多い。改進党系に連なるものに、嚶鳴社(おうめいしゃ)案、共存同衆の「私擬憲法意見」、交詢社(こうじゅんしゃ)の「私擬憲法案」などがあり、いずれもイギリス流の立憲君主制を基礎とした議院内閣制を採用している。なお、嚶鳴社案を継承しつつ千葉卓三郎(たくさぶろう)ら五日市(いつかいち)の農村青年グループが起草した「日本帝国憲法」(五日市憲法草案)は人権保障にきめ細かい配慮をしている。自由党系には、立志社の「日本憲法見込案」、植木枝盛(うえきえもり)の「日本国国憲按(こっけんあん)」などがあり、君主の存在を認めているが、人民主権的な立場をとり、精細な人権保障規定のほか、地方自治、一院制(議会に強い権限を与える)、抵抗権の規定など特色のある構想を示している。とくに植木案は、連邦制の採用や革命権を認めるなど独自の内容をもっている。また官権派新聞といわれた『東京日日新聞』(福地源一郎(ふくちげんいちろう))の「国憲意見」は、神秘的な君主観を打ち出しているが、君民同治、責任内閣制など立憲主義的側面も示している。民権派の各案は、政府の欽定(きんてい)憲法構想に対抗して、国約ないし民約憲法の立場にたっており、「国憲意見」も国約憲法説である。現在40種以上の私擬憲法が確認されている。

(2)第二次世界大戦の敗北で大日本帝国が崩壊し、新日本建設が論議される過程で、大日本帝国憲法にかわる憲法案が民間で起草された。政党の憲法試案を含めて十数種確認されている。代表的なものは高野岩三郎・鈴木安蔵(やすぞう)ら憲法研究会の「憲法草案要綱」(1945年12月)、高野岩三郎の「改正憲法私案要綱」(同)、稲田正次・海野普吉(うんのしんきち)ら憲法懇談会の「日本国憲法草案」(1946年1月)などである。このうち「憲法草案要綱」は、自由民権期の植木案などを参考にしたもので、日本国憲法の基礎となったGHQ案に影響を与えている。

[松永昌三]

『稲田正次著『明治憲法成立史』上下(1960、62・有斐閣)』『家永三郎・松永昌三・江村栄一編『明治前期の憲法構想』(1967・福村出版)』『末川博編『資料戦後二十年史3 法律』(1966・日本評論社)』

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百科事典マイペディア 「私擬憲法」の意味・わかりやすい解説

私擬憲法【しぎけんぽう】

明治憲法制定前に民間人によって起草された憲法案の総称。幕末のものもあるが,1876年元老院で国憲案起草が開始され,政府の欽定憲法制定の動きが進むのに対応して,1881年ころ自由民権運動側から多くの草案が出された。これらは協約憲法的立場をとるが,自由党系の徹底した民主主義的内容のもの(植木枝盛の憲法草案が代表的)と,改進党系の立憲君主制的議会主義をとるもの(馬場辰猪らの交詢社憲法案が代表的)に大別される。ほかに明治憲法の原則を擁護した帝政党系や官僚個人のものも含め,今日40余種が知られている。
→関連項目大日本帝国憲法

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「私擬憲法」の解説

私擬憲法
しぎけんぽう

明治前期に民間でつくられた憲法の私案の総称。政府関係者が個人的に作成したものも含む。1873年(明治6)頃から政府関係者によってつくられはじめ,79年以降には各地の民権派有志による立憲政治の学習会が開かれ,私擬憲法が盛んにつくられた。現在50編近く発見されているが,81年のものが最も多い。いずれも立憲君主制を定め,国民の権利・自由を認めている。イギリス流議会主義をとるもの(交詢社(こうじゅんしゃ)憲法案),三権分立のもとで国民の権利・自由を大幅に認めたもの(植木枝盛(えもり)の日本国国憲案,立志社の日本憲法見込案),ドイツ流君権主義を定めたもの(山田顕義(あきよし)の憲法草案)などがある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「私擬憲法」の意味・わかりやすい解説

私擬憲法
しぎけんぽう

憲法の私案。私擬憲法は幕末からあるが,普通は,国会開設の論議が盛んになった 1880年に制定された集会条例により,活動の自由を奪われた各地の政社が,憲法そのものの理論的研究を行うようになって生れた憲法の私案をいう。官辺系のものも若干ある。土佐の立志社系,政党でいえば自由党系のものが最も急進的で,その典型である植木枝盛起草の「東洋大日本国国憲按」は,人民主権論の立場に立っている。改進党系のものはイギリス流の立憲政体を採用し,その代表的なものは交詢社の「私擬憲法案」である。また東京日日新聞の「国憲意見」は保守系の代表的私案であり国体擁護皇室中心主義を標榜している。

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旺文社日本史事典 三訂版 「私擬憲法」の解説

私擬憲法
しぎけんぽう

明治前期の憲法私案の総称
幕末維新期に西周 (にしあまね) 案・青木周蔵案などがあるが,主として自由民権運動発展期,1880年国会期成同盟大会で憲法見込案をつくるよう決議してから翌年にかけて民間で作成された私案。自由党系案はアメリカ・フランス風で,植木枝盛の「東洋大日本国国憲按」,立志社の「日本憲法見込案」など。一院制・主権在民・基本的人権の保障を規定した。立憲改進党系案の「交詢社憲法案」などはイギリス風の立憲君主制を基調とする。その他君主権よりも人民の権利を優先するとした東京五日市の農民らによる「五日市憲法」や,天皇主権の「国憲意見」などもある。

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世界大百科事典(旧版)内の私擬憲法の言及

【千葉卓三郎】より

…明治期の代表的な私擬憲法である日本帝国憲法(五日市憲法草案)の起草者。陸奥国栗原郡白幡村(現,宮城県栗原郡志波姫町)に生まれ,11歳のとき仙台で大槻磐渓に学ぶ。…

【法制史】より

…主としてプロイセン憲法を参照した大日本帝国憲法は,帝国議会を開設したものの,天皇による統治権の総攬と,国民の基本的人権の制約とを特徴とする。これは,自由民権運動が国家構想として提示した私擬憲法草案(例えば1881年の交詢社の私擬憲法案や植木枝盛の〈日本国々憲按〉など)が,天皇の権限を制約し,国民の基本的人権を手厚く保障したのと基本的に性格を異にした。またこの時期から,民法,商法,民事訴訟法,刑事訴訟法などの法典編纂や司法制度を整備確立する裁判所構成法の編纂が,大日本帝国憲法を頂点とする法体系を完成するために本格的に推進され,いずれも90年,国会開設を前に公布された。…

【明治時代】より

…これ以後,民権運動は愛国社を中心に全国的な国会開設運動として展開され,知識人をはじめ豪農・豪商層や農民たちをも巻き込んだ運動として高まった。とくに80年には運動の広がりはピークに達し,各地から国会開設の建白が続々と提出され,政党の結成や自分たちの手になる憲法草案の作成を課題とするようになった(私擬憲法)。
[自由民権と国会開設]
 政府は,これに対して1880年に集会条例を公布して民権派の組織的活動に弾圧を加えたが,翌年政府が決定した北海道開拓使官有物払下げが世論の反発を招き(開拓使官有物払下事件),反政府運動は再び全国的な高まりを示した。…

※「私擬憲法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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