日本歴史地名大系 「久保田城跡」の解説 久保田城跡くぼたじようあと 秋田県:秋田市久保田城下久保田城跡[現在地名]秋田市千秋公園久保田城地神明(しんめい)山は、現在の千秋(せんしゆう)公園を含む一帯の台地である。神明山は分離丘陵で高さ約四〇メートル、その名は丘陵上にあった神明社に由来する。別名に、地形による三森山(「総社神社由緒記」秋田市史)、近隣の村にちなみ保戸野(ほどの)山(「御本城并枝城」国典類抄)、河尻(かわしり)山(羽陰史略)があり、また矢留の森(やどめのもり)(同書)ともいった。神明社は築城の時、南の城下内町の楢山下浜(ならやましたはま)町に移したという(「田崎秀満日記」伊頭園茶話)。久保田城は矢留城ともいい、公的には秋田城とも称した。慶長九年(一六〇四)築城なって移城した時「秋田城と称」(羽陰史略)ともみえ、元禄一三年(一七〇〇)藩儒木村松軒の城の由来記も「秋田城記」と題した。佐竹義宣は検分のうえ旧秋田城跡(現寺内)よりも保戸野山(神明山)を選んだという(御本城并枝城)。 久保田城跡くぼたじようあと 千葉県:袖ケ浦市久保田村久保田城跡[現在地名]袖ケ浦市代宿・久保田往時は東京湾に面していた標高三五メートルの台地先端部に立地する。永禄一二年(一五六九)頃と考えられる六月二日付の千葉胤富書状写(井田文書)に「窪田普請」とみえ、この頃里見氏によって下総進出の拠点として築かれたと考えられる。城跡は道路建設や宅地開発によって破壊が著しいが、部分的に堀切や腰曲輪が残されており、かろうじて城郭構造を伝えている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by