原田喜右衛門
はらだきえもん
(?―1598ころ)
安土(あづち)桃山時代の貿易商人。1591年(天正19)豊臣(とよとみ)秀吉のフィリピン(呂宋(ルソン))駐在スペイン総督に対する降伏要求外交に関して、黒幕的存在として暗躍したことで知られる。出自は不明であるが、スペイン側史料によれば、都(畿内(きない))出身者らしく、戦国時代末期の風潮に乗じて海外に進出し、主としてフィリピン海域において原住民や中国人らとの間で貿易した。1587年マニラ周辺の土豪たちが、松浦(まつら)氏一族の武士の支援を受けて蜂起(ほうき)した対スペイン植民地支配反対闘争にも関与して、当局の取調べを受けたらしい。これが機縁となって秀吉の寵臣(ちょうしん)長谷川宗仁(そうにん)を介し秀吉にフィリピン征服計画を進言し、これが契機でいわゆるフィリピン招撫(しょうぶ)事件が起こった。喜右衛門の一族の孫七郎(手代、また甥(おい)ともいう)は使節として秀吉の書を携えフィリピンに赴いたが、その後幾度かの折衝もまとまらず、かえってフランシスコ会の日本伝道の道を開くことになり、ひいてはいわゆる二十六聖人殉教の一因となった。喜右衛門はこの間、秀吉の高山国(台湾)征服計画にも参与し、一方肥後の加藤清正や薩摩(さつま)の島津氏に近づきフィリピン貿易の斡旋(あっせん)を行うなど当時の西南大名の外国貿易に積極的に介入した政商的人物であった。秀吉とほぼ時を同じくして死んだという。
[箭内健次]
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原田喜右衛門
生年:生没年不詳
近世初頭の貿易家。洗礼名をパウロと名乗るキリシタンであったが,のち背教している。かねてからフィリピン貿易に従事。天正19(1591)年豊臣秀吉がフィリピン諸島に入貢を促し,その答礼使としてドミニコ会派のフアン・コボが翌年来日。喜右衛門は帰国するコボと共に,第2回の遣使としてフィリピンに渡った。だがコボが帰途台湾沖で遭難したため,フィリピン側は第2回目の答礼使として,フランシスコ会のペドロ・バプチスタらを派遣。このようにフィリピン側ではたびたびの往復で秀吉の出兵を遷延させる策に出ていた。この状況下,喜右衛門はフィリピンは防備が薄いので,秀吉の征服は容易であると進言した。しかし文禄1(1592)年秀吉が朝鮮出兵を開始したため,フィリピン問題には力が入らなかった。さらに台湾の占領も秀吉に進言し,フィリピン諸島との中間地点の重要性を説得,自ら台湾征服を願い出ているが,これも秀吉に余裕がなかった。当時喜右衛門は全財産を失い,その能力もなくついにフィリピン貿易を中止した。スペイン人商人のアビラ・ヒロンによれば,喜右衛門は裕福な商人であったが,浪費好きで,身分不相応に見栄を張り,破産していたと伝えられる。人柄は極めて聡明で,抜け目のない,腹黒い,目はしのきく男であると評している。<参考文献>アビラ・ヒロン『日本王国記』(岩生成一他訳),村上直次郎編『異国往復書翰集』,中田易直『近世対外関係史の研究』
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原田喜右衛門 (はらだきえもん)
天正(1573-92)末より文禄年間(1592-96),慶長(1596-1615)初頭にかけてのフィリピン島(呂宋(ルソン))と貿易を行った豪商。生没年不詳。原田孫七郎は喜右衛門の一族であろう。喜右衛門は毎年のように呂宋や台湾に渡航して貿易を行い,秀吉の大使役も務めていた。彼は台湾を中継地にすべきだと考えて秀吉に台湾征服をすすめ,みずからも一時台湾遠征を考えるが,財政難で果たせなかった。貿易,外交以外にあまり知ることができない人物であるが,一時,のちの村山等安や末次平蔵程度の財力をもつ有力な豪商であったことは事実であろう。
執筆者:中田 易直
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原田喜右衛門 はらだ-きえもん
?-? 織豊時代の貿易商。
呂宋(ルソン)(フィリピン)や台湾と貿易をおこなう。豊臣秀吉に呂宋征服をすすめ,秀吉の使者として天正(てんしょう)20年(1592)手代の原田孫七郎をマニラに派遣。翌年2度目の使者としてみずから呂宋にわたった。
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世界大百科事典(旧版)内の原田喜右衛門の言及
【足尾鉱毒事件】より
…そして日露戦争下世論の鉱毒問題離れが進むなかで,上流と下流の被害農民を分断し,甘言と強権をもって下流の谷中村民を遠くは北海道のサロマベツ原野などに移住させた。07年かつて陸奥の秘書で前年まで古河鉱業の副社長だった内務大臣原敬は,遊水池化に抵抗する16戸の残留民に土地収用法を適用し,強制破壊を行った(同年8月刊の荒畑寒村《谷中村滅亡史》は即日発禁とされた)。田中正造と残留民はなおも仮小屋をつくって住み続け,土地の不当廉価買収訴訟を起こし(1919年控訴審で一応勝訴)谷中村復活を目ざした。…
【警視庁】より
…これを背景として警視庁の廃止を求める運動が組織され,06年1~2月帝国議会で廃止問題が審議されるに至った。これに対して第1次西園寺公望内閣の内相原敬(政友会)は,警視庁に改良は加えるが,廃止には絶対に反対すると表明して改革に着手。4月官制を全面改訂して,高等警察に関する首相直属規定を削除するなどの改革を実施するとともに,高等課を新設して社会運動取締り体制を整備した。…
【三教会同】より
…内務次官[床次(とこなみ)竹二郎]は欧米視察で宗教の感化力の大きさを知り,日本の諸宗教を国民教化に協力させようとし,政府当局や宗教団体を説得し,この会同を実現した。1912年2月25日内務大臣原敬は政府関係者とともに教派神道13名,仏教諸派51名,キリスト教7名の代表者と懇談し,国民道徳振興への協力を求めた。翌日三教代表者は集まり皇運扶翼,国民道徳振興を誓い,政府に宗教尊重,政治・宗教・教育の融和を求める決議をした。…
【政友会】より
…これ以後,官僚勢力を代表する桂太郎と,03年伊藤博文に代わって総裁となった西園寺公望の政友会との対抗と妥協によって政権が維持される,いわゆる桂園時代が展開される。この間,党運営は原敬や松田正久らが実権を握って運用し,とくに第1次,第2次の西園寺内閣には原が内相に就任し,官僚勢力に対抗,鉄道の敷設や道路・港湾の整備,学校の設立などの地方利益を積極的に誘導することにより,地主層や地方財界人などに支持基盤を固めて党勢を拡大した。 第2次西園寺内閣は行財政の整理を掲げ,陸軍の2個師団増設要求を抑制しようとして陸軍との協調ができず,ついに1912年12月陸相の辞任により内閣は総辞職に追い込まれると,政友会は国民党とともに第1次[護憲運動]をおこし,代わって成立した第3次桂内閣を〈憲政擁護・閥族打破〉のスローガンを掲げて攻撃し,翌13年2月これを退陣させた。…
【大正時代】より
…政府が民衆の不満を押さえて軍拡を進めるには政党の力を借りざるを得ず,1906年1月には政友会総裁西園寺公望を首班とする内閣が,官僚派代表たる長州閥の桂太郎内閣に代わって登場し,08年7月第2次桂,11年8月第2次西園寺と,交互に政権を担当する〈桂園内閣〉時代を現出した。政友会は実力者原敬の領導のもと,鉄道敷設,港湾修築など,制限選挙下有権者の大半を占める農村地主層の利益をはかる〈積極政策〉を推進し,1908年,12年の総選挙に安定多数を獲得し,つねに政府与党の地位を確保し,政治的発言権を著しく増大させた。桂園時代は自前の政党を組織せんとする桂の野望,海軍を代表する薩摩閥の山本権兵衛と提携せんとする西園寺の思惑により終りを告げた。…
【内閣総理大臣】より
…しかし天皇の諮問に応じ後継首相の〈奏薦〉を行う元老・重臣は,これのみを首相適格の条件としたわけではない。藩閥・公家出身者以外から初めて首相となり,政党内閣を率いて〈平民宰相〉と呼ばれた原敬の成功も,政友会党首であることに加え,元老や藩閥系官僚の信任や同意に強く依存していた。昭和に入り元老・重臣の弱体化と軍部や官僚の疑似政党化が進むにつれ,首相の地位も政党と同じく著しく弱く不安定となる。…
【普選運動】より
…しかし運動は憲政会有志に指導される全国普選連合会系と,労働組合系とに二分される傾向をみせ,院内でも無条件納税資格撤廃の国民党と,独立生計者のみに有権者を限る憲政会とは別個に法案を提出した。原敬は普選即行は社会組織に打撃を与えるとして議会解散を断行。政友会の大勝とアナルコ・サンディカリスムの労働界への浸透により普選運動は一時衰えた。…
【毎日新聞】より
…当初は[大同団結]運動支持の柴四朗([東海散士])主筆の下で政治色が強かったが経営上は振るわず,89年からは[本山彦一]相談役と渡辺治(1864‐93)社長兼主筆の指導の下に穏和な論調の紙面作りと広告収入の増加で発展し,《大阪朝日新聞》と並ぶ阪神地方の有力紙となった。97年から[原敬],1900年から小松原英太郎(1852‐1919)が社長を務め,とくに原は紙面の平易化,家庭面,海外通信の拡充に努めた。03年,本山が社長に就任,新聞の独立のためには経営の独立が必要だとして〈新聞商品主義〉を掲げて約30年間経営に当たり,《大毎》の発展に貢献した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」