久慈湊
くじみなと
久慈川の河口に開けた湊。天保八年(一八三七)の仮名付帳には閉伊口村の枝村として湊村がみえるが、「管轄地誌」によれば門前村に属した。正保二年(一六四五)の御絵図(郷村古実見聞記)に南部一四湊の一つとして載り、江戸時代には漁港として、また魚粕・海藻類・鉄・塩・大豆・琥珀・木材などを移出する一方で、米・木綿・古着などを移入する港として栄えた。しかし正保国絵図に「荒磯」とみえるように良港ではなかったため、弁天崎南西の麦生大間(入江)に入港した本船へ、大尻・二子・麦生などから荷を積入れることも多かった。「御勘定所日記」によると、宝永年間(一七〇四―一一)東廻海運によって出羽の幕府城米が江戸に送られるようになってからは、麦生に城米船が入って日和待するようになった。しかし同書天明元年(一七八一)の記事によれば、大尻などからの本船への積入れを禁止しており、「湊より艀下積致候様、且隠目付被差出候」とある。
漁獲物の主なるものは〆粕や干鰯の原料となる鰯で、文化一三年(一八一六)久慈浦全体の水揚代は六千一六〇貫文、同一〇年の鮪・鯛の水揚代は一六五貫五〇〇文、鮪は三三九本で一四〇貫二二四文、鯛は三三二枚で一五貫二八〇文、鮫は一本一〇貫文の価格であった(八戸藩日記)。鰯を中心とした漁獲物は、陸揚げされた後に仲買問屋である五十集屋に買取られ、市場を通じて卸された。五十集屋は一定の礼金を藩に支払い五十集札の交付を受けた。寛政三年(一七九一)に大川目村生出町の者に八戸藩勘定所から交付された五十集札が現存する。文政九年(一八二六)には久慈通五十集荷物の自領・他領出し判紙ならびに五十集札役金の取立てを、久慈湊の定吉が年二両の礼金で三ヵ年間許可され、札一枚につき一貫文、他領出しの荷物一駄二〇〇文の取立てとともに抜荷の取押えなどを命ぜられており、湊・八日町の者二六人に五十集札が交付されている(「五十集人員書上覚」晴山文書など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 