久賀村
ひさかむら
[現在地名]福江市久賀町
福江島の北東海上にある久賀島を村域とする。同島は南西部は田ノ浦瀬戸、北東部は奈留瀬戸に臨み、島の中央部は北に開いた深い入江(久賀湾)となっている。入江の東には福見岳・白岳などの山嶺があり、蕨・福見・内幸泊・五輪・大開などがある。同じく西には番屋岳・鵜岳・犬卸山・徳女岳などがあり、野首・細石流・浜泊・深浦・竹山・永里・猪ノ木、これらの南に久賀・市小木・内上平・浜脇・田ノ浦・野園などがある。中世には千坂島と称したが、寛永一五年(一六三八)久賀島に改めたとも伝える。島名は安永七年(一七七八)の日本輿地路程全図に北東側から順に東島(現中通島)・西島(現若松町)・奈留島(現奈留町)およびヒサコシマがみえ、天明三年(一七八三)の重鐫日本輿地全図および天保八年(一八三七)の国郡全図並大名武鑑では瓢島などと記される。
永正四年(一五〇七)宇久盛定に軍資金を援助した和泉佐野(現大阪府泉佐野市)の山下氏は、久賀島の鰤網代権と嵯峨島(現三井楽町)の
網代権を得て福江に定住するようになったという(佐野屋文書)。江戸時代は福江藩領久賀掛に属し、久賀村は島内諸郷の総称でもあった。慶長国絵図に久賀とみえ、高一三六石余。寛永一四年の久賀掛畠帳(青方文書)では久賀村として本畠方一町四反余・分米一二石余、帳付百姓三〇人・屋敷持一六人。反別の一町四反余が当村の全体を示すものであれば、小規模の耕地といえよう。別に蕨村・田之浦村のほか、肥喜里村として新本畠方六反余・分米四石余、市小木村として本畠方五反余・分米五石余、新本畠方・新野畑方分、帳付百姓二三人・屋敷持一六人、「大手喜村」(大平喜村か、つまり大開)として本畠方二反余・分米一石余とあり、のち久賀村に一括される諸村が単独で記載されている。万治二年(一六五九)の惣高積之帳に「久賀田浦」とみえ、正保国絵図の高五三八石余、今高は五一三石余。
万治年間とされる五島一円惣高帳には「久賀、田之浦」として高五一三石余、うち蔵入地四八六石余・寺社領二七石余。寛文四年(一六六四)の福江領高辻帳では久賀村として高四七三石余。元禄国絵図に久賀島とある。延宝三年(一六七五)から天和四年(一六八四)までの間に高九六石余の新田改があったほか、元禄一〇年(一六九七)高七四石余、享保六年(一七二一)高三石余、安永元年久賀村肥喜里八石余・久賀村大野二石余・久賀村大平喜六石余・久賀村市小木八石余・久賀村田之浦一石余・久賀村久賀一斗余となっており、享和三年(一八〇三)には高二二石余の新地改があった(天保五年福江領高辻郷村帳)。
久賀村
くかむら
[現在地名]久賀町大字久賀
屋代島の中央西寄りに位置し、西は椋野村、三蒲村(現大島町)、南は屋代村(現大島町)、安下庄(現橘町)、東は日前村(現橘町)と接する。北は海に面し、海上に前島を望む。南側の村境に、西から文珠山・嘉納山・嵩山の山々が並び立つ。
「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二三日条所収の周防国在庁官人等解に「久賀」とみえる。同文書によれば、久賀は文治二年東大寺造営料として寄進された周防国衙領の一つ久賀保の地であった。
中世末、当村辺りは毛利元就と陶晴賢の厳島の戦の際、毛利氏に味方して戦功のあった来島通康に与えられた(松尾寺文書)。天正九年(一五八一)羽柴秀吉の中国攻めで来島氏は秀吉の味方となり、小早川隆景・桑原入道の攻撃をうけ領地を失った。
久賀村
くがむら
[現在地名]勝田町久賀
余野村の東、梶並川上流の谷間に位置する。正保郷帳に村名がみえ、田一七四石余・畑八三石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高七六石余・開高一七一石余、村位は中。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によると延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数六三(うち上久か一四・いかわつ九・河井一二など)。津山藩主森氏断絶後は幕府領が続くが、安永四年(一七七五)から寛政六年(一七九四)の間は播磨三日月藩預、天保一一年(一八四〇)から弘化元年(一八四四)間は播磨龍野藩預(美作国郷村支配記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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