乙原村(読み)おんばらむら

日本歴史地名大系 「乙原村」の解説

乙原村
おんばらむら

[現在地名]邑智町乙原

江川南岸沿いにあり、対岸吾郷あごう村。江川下流の枝郷どうまるには銅ヶ丸鉱山がある。中世には佐波さわ郷に含まれたとみられ、現在江川に君谷きみだに川が合流する地内のたけ付近では戦国期に合戦が行われている。毛利氏が石見東部への進出を本格化した弘治元年(一五五五)から翌二年にかけて、毛利方にあった佐波氏はこの地で尼子方と戦っており、同元年三月三〇日の佐波興連袖判感状(尾原義雄所蔵文書)には「去三日竹表敵相働之処」とある。また温湯ぬくゆ(現川本町)にあった小笠原氏が籠城直前の永禄二年(一五五九)三月に毛利方とこの地で戦闘を交えているように(同月一〇日「尼子晴久感状」林愛吉所蔵文書)、小笠原氏と佐波氏はたびたびこの付近で対峙している。


乙原村
おちばらむら

[現在地名]三田市乙原

小野おの村の北、くろ川流域の山間渓谷地帯に立地。青野あおの川沿いに母子もうし村へ出て丹波へ至る道が通る。ほかに谷間に永沢寺えいたくじ村への山道川辺かわべ田中たなか村へ出る道もあった。慶長国絵図に乙原村とみえ、高三五一石余。正保郷帳では「下村有」の注記があり、高四八七石余。天保郷帳では高五〇二石余。正保四年(一六四七)から小柿こがき村と栗田くりた山をめぐり山論を繰返した。寛文四年(一六六四)の山論村絵図(乙原区有文書)が残る。元禄四年(一六九一)の山論はいったん和談したが解決せず、正徳五年(一七一五)になって境界が確定した(同文書)


乙原村
おつぱらむら

[現在地名]金山町乙原

馬瀬まぜ川の西岸にあり、対岸は八坂はつさか村。美濃国郡上ぐじよう郡に属する。「新撰美濃志」によれば永禄(一五五八―七〇)頃近隣五ヵ村を領した川尻五郎左衛門が住んでいたとある。正保郷帳に村名がみえ、田五二石余・畑三七石余、郡上藩領。正保三年(一六四六)同藩分知により旗本遠藤常紀(通称和良遠藤・一千石遠藤)領となる。同氏の知行地は当村・祖師野そしの村・戸川とがわ村と、下洞しもぼら村・下沢しもさわ村・宮代みやしろ村・宮地みやじ(現郡上郡和良村)および法師丸ほしまる(現同上)の一部で、当初当村に陣屋が置かれたが、のち廻り代官に改められた(金山町誌)


乙原村
おとはらむら

[現在地名]久瀬村乙原

東津汲ひがつつくみ村の南東、揖斐川左岸にある。慶長郷帳に村名がみえ、高一一八石余。慶長一五年(一六一〇)の徳川家康朱印状写(徳川林政史研究所蔵)によれば、当村一一八石余が石河光忠(石河氏はのち尾張藩家老)に与えられている。寛永一〇年(一六三三)の横蔵寺・実相院連署申状(横蔵寺文書)によれば、古くは横蔵よこくら(現谷汲村)領であったという。元和二年(一六一六)の村高領知改帳でも石河光忠領。正保郷帳では尾張藩領で、田九七石余・畑二〇石余、ほかに綿五六〇匁(銀三九匁余)。明暦覚書によれば概免二ツ七分五厘。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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