二上村(読み)ふたがみむら

日本歴史地名大系 「二上村」の解説

二上村
ふたがみむら

[現在地名]高岡市二上・二上町

二上丘陵の南、小矢部川下流左岸、城光寺じようこうじ村の西方に位置。二上山を神体とする二上神は、宝亀一一年(七八〇)一二月一四日従五位下に叙せられ越中で最高の神階に昇った(続日本紀)。文明七年(一四七五)九月一四日後土御門天皇は二上庄領家職の土御門三位泰清に対し、二上社の造営に越中国棟別銭の使用を許す綸旨を下しており(「後土御門天皇綸旨」射水神社文書)、この二上社は当地一帯を占めた二上庄の鎮守であった。正保郷帳では高九七三石余、田方四三町四反余・畑方二一町四反、新田高一四〇石ほど。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一千一九八石・免六ツ一歩、小物成は猟船櫂役五匁(ほか五匁退転)・鮭役五六匁・鱒役六匁(三箇国高物成帳)


二上村
ふたがみむら

[現在地名]福井市二上町

文殊もんじゆ山北麓にあって、東は帆谷ほだに村、西は半田はんだ村。奈良時代には東大寺領糞置くそおき庄に含まれていた。貞和三年(一三四七)七月一七日付の足利直義安堵状(秋元興朝所蔵文書)に「越前国太田庄内重富保并二上社地頭職事」とあり、また天文二〇年(一五五一)六月七日付朝倉景隆寄進状(真珠庵文書)にも「越前国内大田保二上村国衙分半済之事」とあって大田おおた保に含まれていたらしい。

慶長三年(一五九八)六月の越前国足羽南郡二上村御検地帳(加藤家文書)に田畠二七町三段六畝四歩、分米四七〇石四升とあり、幕末まで変化はない。正保郷帳によると田方四三六石余・畠方三三石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によれば、芦田図書ほか四人の相給知行所。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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