二井宿村(読み)にいじゆくむら

日本歴史地名大系 「二井宿村」の解説

二井宿村
にいじゆくむら

[現在地名]高畠町二井宿

安久津あくつ村の東に位置。新宿とも書いた。集落は二井宿街道安久津村駄子だんご町の東に続く上駄子町・弁天前べんてんまえ下宿しもじゆく・上宿と南流する屋代やしろ川沿いのすじうわだいなどに分れる。二井宿街道は東方の二井宿峠を越え、陸奥しち宿しゆく(現宮城県刈田郡七ヶ宿町)へ向かう。この道とは別に屋代川沿いに北上する道が古くから開けていて、上の台に宿があったが、のち上宿・下宿辺りに新しい宿が形成されたため、新宿とよぶようになったと伝える。度重なって火災に遭ったため、寛政五年(一七九三)二井(二つの井戸の意)の表記に改めたという。なお弁天前から駄子町にかけての南側山麓をおお畑と称し、大畑の小字名もある。

大永八年(一五二八)八月一六日の例祭物取収并支払帳写(安久津八幡神社文書)によると、安久津八幡宮の例祭にあたって新宿の伊勢殿が一六文、大畑の八郎左衛門が六〇文を奉納している。天文七年(一五三八)の段銭古帳には「大はたにいしゆく」の段銭は一一貫文とある。伊達氏天文の乱中の同一六年閏七月二〇日、伊達晴宗は鎌田四郎兵衛に宛てた書状に高畠から新宿までを制圧したことを記している(伊達正統世次考)。晴宗勝利後の同二二年の晴宗公采地下賜録では、横尾新十郎が「やしろ大はたの内、もにハくち在家」、牧野弾正左衛門が「大はたの郷新宿」、中野常陸介が「大はたの内」の「やハた分、六間」「永徳寺、三間并切田千五百刈」、草刈因幡守が「新宿の内、にしこほり新介をんの所」の「大くほ在け」「うすかくほ在け并きり田一くわんの所」をそれぞれ与えられている。最上義光が弟中野義時と反目し、伊達輝宗が義時を加勢した最上合戦の際の天正二年(一五七四)五月七日と二五日、輝宗は当地に出馬している(「伊達輝宗日記」伊達家文書)。同一五年一月二七日、伊達政宗は新宿の関守に命じて、一駄二〇〇銭以上の貨財と甲冑・火薬・塩硝等を関外へ移出することを禁じているが(奥羽編年史料)、これは最上氏への対策であったとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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