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伊達輝宗 だててるむね

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

伊達輝宗
だててるむね

[生]天文13(1544).陸奥,西山
[没]天正13(1585).陸奥,高田原
戦国時代の武将。伊達晴宗の子,政宗の父。永禄8 (1565) 年家督相続。相馬氏との闘争を経て,織田信長との接近をはかり,近世伊達氏への基礎を築いた。天正 13 (85) 年,畠山義継の謀略にあい死亡。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

伊達輝宗 だて-てるむね

1544-1585 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)13年9月生まれ。伊達晴宗の次男。永禄(えいろく)8年家督をついで出羽(でわ)米沢城(山形県)城主となる。天正(てんしょう)12年家督を長男の政宗にゆずって隠退。翌13年二本松義継に捕らえられ,救出にむかった伊達勢の銃撃で,10月8日義継とともに最期をとげた。42歳。幼名は彦太郎,総次郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

伊達輝宗

没年:天正13.10.8(1585.11.29)
生年:天文13(1544)
戦国時代の武将。晴宗の子,桑折西山城に生まれる。母は大館城主岩城重隆の娘久保姫。幼名彦太郎のち総次郎,夫人は最上義光の妹義姫(保春院)。弘治1(1555)年将軍足利義輝より1字拝領し輝宗。永禄7,8(1564,65)年ごろ家督を継いだが,このとき田村氏とは親しかったほかは,近隣諸氏は表では好を通じながら裏では伊達氏の隙をねらっていた。しかも父晴宗との対立は激しく,晴宗権力の中枢であった中野宗時,牧野宗仲父子の執政体制が続いていた。元亀1(1570)年宗時,宗仲父子の謀反が露顕し,輝宗はよくこれを鎮圧し(元亀の変),遠藤基信を宰臣として家中を統治。以降伊達氏権力の中枢には伊達,信夫に代わり置賜出身者がすわる。永禄9年蘆名氏と婚姻を結んで友好関係を保ち,東隣の相馬氏とは天正初年以来連年交戦。天正7(1579)年息子政宗と田村清顕の息女との結婚により田村氏との連合がなり佐竹,蘆名,二階堂などの連合と対峙。が,天正11,12年のころは織田信長のあとを継いだ豊臣秀吉が破竹の勢いをみせ,南奥の諸氏は連合してこれに当たる気運をつくり出した。その中で,相馬氏と12年講和して旧領回復,同年10月隠居して米沢西郊の館山に移る。しかし,翌年出陣先の宮森城から服属の礼にきた畠山(二本松)義継に拉致される途中,伊達勢の銃撃により義継もろとも最期をとげた。42歳。山形県高畠町夏茂の資福寺跡に輝宗の五輪塔が,福島市慈徳寺に伝輝宗塚がある。米沢市覚範寺跡も近年発掘された。

(伊藤清郎)

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世界大百科事典内の伊達輝宗の言及

【伊達政宗】より

…仙台藩祖。米沢城主伊達輝宗の子。母は山形城主最上義守の娘。…

※「伊達輝宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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