日本歴史地名大系 「二井宿峠」の解説 二井宿峠にいじゆくとうげ 宮城県:刈田郡七ヶ宿町湯原村二井宿峠湯原(ゆのはら)から山形県東置賜(ひがしおきたま)郡高畠(たかはた)町二井宿(近世期は新宿村)を経て米沢市に通じる県境の峠で、現在は三〇〇メートルほど南を国道一一三号が通る。標高約五六八メートル、南半部の奥羽山脈越では低地の峠として古くより重視された。米沢盆地は中世屋代(やしろ)庄とよばれ、近世もほぼ同地域を屋代郷とよび、また長井(ながい)庄(現山形県長井市周辺)にも通じるので、永井峠・屋代峠ともよばれる。なお峠の頂上部には伊達家九代政宗の陣場と伝える屋代館跡があり、平場と段築がみられる。「観蹟聞老志」にも仙翁(せんのう)嶽(現仙王岳)屋代峠とみえ、岳麓の谷底に橋が架かり、ここで湯原と米沢が結ばれることから俗に跟合(あくとあわせ)というと記される。 二井宿峠にいじゆくとうげ 山形県:東置賜郡高畠町二井宿村二井宿峠高畠町二井宿から宮城県刈田(かつた)郡七(しち)ヶ宿(しゆく)町湯原(ゆのはら)に通じる県境の峠で、標高約五六八メートル。現在は南方約三〇〇メートルの地点を国道一一三号が走る。宮城県側からは屋代(やしろ)峠・長井(永井)峠ともよばれる。古くには二井宿の上宿(かみじゆく)・下宿あたりから屋代川を遡上、上(うわ)の台(だい)から東方の沢をつめ、尾根を越えて湯原の干蒲(ひかば)へ出る道が利用されたと伝える。二井宿峠越が主に利用されはじめたのは伊達氏の置賜支配後と推定されており(→二井宿街道)、峠の頂上部には伊達政宗(儀山公)が陣屋としたと伝える屋代館跡がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
日本大百科全書(ニッポニカ) 「二井宿峠」の意味・わかりやすい解説 二井宿峠にいじゅくとうげ 山形県東置賜(ひがしおきたま)郡高畠町(たかはたまち)と宮城県刈田(かった)郡七ヶ宿町(しちかしゅくまち)との県境にある峠。新宿峠とも書く。国道113号(二井宿街道)が通じる。標高568メートルで、奥羽山脈越えの峠としては低く、古くから利用されてきた。近世は羽州街道に通じ、山形、秋田、弘前(ひろさき)など西奥羽各藩が参勤交代路に利用した。仙台藩は国境警備のため峠下の湯原宿(ゆのはらしゅく)に館(やかた)を置いた。山形側の峠下には二井宿の宿場があった。山形県側は七曲りの急坂で知られる。[境田清隆] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二井宿峠」の意味・わかりやすい解説 二井宿峠にいじゅくとうげ 宮城,山形県境にある峠。標高 568m。奥羽山脈を越える国道 113号線が通り,宮城県七ヶ宿町と山形県高畠町が連絡する。白石川上流のウィンドギャップ (風隙) で,宮城県側は緩傾斜であるが,米沢盆地側は急傾斜。約 4km北の山形県上山市との間の金山峠 (かなやまとうげ。 629m) とともに,江戸時代には日本海側の諸大名の参勤交代の通路であった。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by