二条斉敬(読み)にじょう・なりゆき

朝日日本歴史人物事典 「二条斉敬」の解説

二条斉敬

没年:明治11.12.5(1878)
生年:文化13.9.12(1816.11.1)
幕末の公家政治家。五摂家。父は斉信,母は水戸藩主徳川治紀の娘従子。安政5(1858)年条約調印に反対の態度を示し,12月,徳川家茂への将軍宣下を伝達のため江戸に赴く。大老井伊直弼に面会を求めたが拒絶され,翌年,10日間の慎に処せられた。文久2(1862)年1月に右大臣,同12月国事用掛。翌年8月18日の政変に参画し尊攘派勢力一掃,12月,関白に就任する。以来,朝彦親王と共に,幕府および徳川慶喜と提携して朝廷を運営,長州再征・条約の勅許に尽力した。慶応2(1866)年9月,列参奏上の22廷臣から批判を受け辞表を提出。却下され,徳川慶喜の将軍就任に力を尽くす。同年12月孝明天皇が没し,翌年1月明治天皇践祚に伴って摂政となる。王政復古の政変で摂政・五摂家の制が廃絶され,参朝停止の処分を受けた。明治1(1868)年8月処分解除,翌年7月麝香間祗候。ちなみに二条家は,他の摂家と違って将軍の諱の1字を用いる慣例があり,斉敬の「斉」は家斉の「斉」である。

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二条斉敬」の意味・わかりやすい解説

二条斉敬
にじょうなりゆき

[生]文化13(1816).9. 京都
[没]1878.12.5. 京都?
江戸時代末期の公卿。左大臣斉信の次男。文政7 (1824) 年元服,文久2 (62) 年 12月左大臣,関白,氏長者 (うじのちょうじゃ) に補任され,慶応3 (67) 年1月には年少の明治天皇の摂政となった。関白としては終始公武合体論を唱え,王政復古に際して摂政の職を解かれたが,明治維新後は大宮御用掛などをつとめ,明治4 (71) 年隠居。没後従一位を追贈された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「二条斉敬」の解説

二条斉敬 にじょう-なりゆき

1816-1878 江戸時代後期の公卿(くぎょう)。
文化13年9月12日生まれ。二条斉信(なりのぶ)の子。安政の大獄に連座して一時謹慎を命じられたが,文久2年右大臣,国事御用掛,翌年関白となる。従一位。孝明天皇を補佐して公武合体の推進,尊攘派(そんじょうは)勢力の追放,条約勅許・長州処分問題などの処理にあたる。王政復古後,朝廷への出仕を停止された。明治11年12月5日死去。63歳。

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世界大百科事典(旧版)内の二条斉敬の言及

【二条家】より

…藤原氏北家の嫡流。五摂家の一つ。九条道家の次男良実を始祖とし,家号は良実の殿第に由来するが,二条の坊名にちなんで銅駝(どうだ)の称もある。承久の乱後,時の権臣西園寺公経の女婿九条道家は,みずから摂政・関白に就任したばかりでなく,教実,良実,実経の3子を次々に摂関の座につけ,九条家の全盛を謳歌した。ところが1246年(寛元4)の名越氏,翌年の三浦氏の乱に関連して,道家および摂政実経が失脚するや,道家はこれを前関白良実の幕府に対する誣告(ぶこく)によるものと推断し,良実を義絶した。…

※「二条斉敬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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