室町時代の守護をさす語。当時の史料上の用語ではなく,第2次大戦後,鎌倉幕府体制下の守護と対比させて,室町幕府の守護の特質を地域的封建領主の性格にあるととらえ,それを概念化した歴史学上の用語。室町時代の守護は大名であったが,この大名は家格としての性格が強く,学術用語として封建領主を意味する大名の用法と史料上の大名の間には意味上の乖離がある。1336年(延元1・建武3),足利尊氏方は播磨の室泊の軍議において,山陽・四国防衛を目的とした各国の大将の配置を行った。この配置が室町幕府の守護任命の原型となったもので,鎌倉幕府の基本的守護体制であった,その国の豪族を守護に任命する方式と,北条氏が集権体制を形成するために用いた,その一族を守護に任命する方式との2方式が合わせてとられている。その後,動乱のなかで豪族的守護はしだいに没落し,幕府が政権の直接的基盤とした畿内およびその周辺部においては,赤松,土岐,佐々木氏などをのぞいて,守護は細川,畠山,斯波(しば),一色など足利氏一門でかためられ,伝統的豪族出身の守護は主として九州の島津,大友,少弐などや東国の武田,千葉,佐竹などのように,辺境地帯においてのみその地位を保持する守護体制が完成した。
室町幕府は建武式目において〈守護は古代の国司に相当する官職で,国内の政治の成否は守護職にかかっている。それゆえ守護には統治能力のある者を任用すべきであって,戦功の賞として守護職を与えるべきではない〉と規定している。ところが実際には,守護は国内の武士を統率する軍事指揮官としての基本的性格を前代より継承しており,地頭職と同じく,官職にともなう経済的収益を生みだす対象として武士たちから恩賞として要求されることが多く,幕府もこの要求にこたえて守護を任命することが多かった。このように守護は,将軍側によって主張された吏務観と守護側によって主張された所領観という二つの側面から把握することが必要であるが,守護大名の本質は,幕府の全国支配の国別執行人=地方行政官としての守護職にあったといえる。守護の支配権は将軍の全国支配権を前提にしており,また領国内には将軍権力の直接およぶ守護不入地などが多く存在したから,守護は守護職権を拡大強化する道を幕府の授権立法に求めざるをえなかった。南北朝の動乱のなかで,幕府は守護の軍事動員力を強化・拡大するため守護職権の権能を拡大した。使節遵行(しせつじゆんぎよう)権,苅田狼藉(かりたろうぜき)に対する検断権,闕所地預置権,半済(はんぜい)給与権,諸役徴収権などがそれで,守護はこれらの権限をテコに国内の武士に対する支配力を強化していった。
南北朝期の守護は〈遷替(せんたい)の職(しき)〉といわれ,初期の30年間に和泉国では8回,若狭国では12回というように交替がはげしく,その支配は安定しなかったが,15世紀以降ほとんどの国の守護が固定化し,それによって守護が国内の武士を被官化していく事例が増加する。しかしこれらの在地領主(国人)はなお自立の気風が強く,その主従制もきわめてルーズで,彼らは相互に国人一揆(国一揆)を結成して守護の支配強化に対抗することも多かった。通常,守護の独自権力としての成長は,このような国内の在地領主層の被官化という私的主従制の形成と守護段銭の賦課などの領域的支配の二つの側面から把握されるが,後者の支配をささえたのが,王朝国家支配下の国衙機構および国衙領の包摂・吸収であった。上杉氏,今川氏のごとく,その国衙職,国務職を幕府から安堵された守護は,国衙機構をそのまま支配下におき国衙領を守護領化していったが,他の守護は国衙機構をその在庁官人などを被官化することをとおして吸収し,また国衙領を半済,守護請などによってしだいに守護領化していった。守護の広域支配の核とされる一国平均役,段銭徴収権は,これらの国衙機構の掌握のうえにたってはじめて可能であったのであり,15世紀後半にはこれを前提にした独自の行政機構を形成し,守護段銭の恒常的賦課,国内裁判権の行使などの領国支配を深化させる守護も多かった。また国衙領の掌握は,膨大な国衙領の残存がその国内に見られる赤松,大内,上杉,土岐などの守護が,その領国制を順調に展開させた事実からもその意義が知られるが,同時に,国内の産業・商業流通の拠点とその組織の掌握としても重要な意味をもっていた。
応仁・文明の乱後,幕府の衰退とともに守護は独自の領国支配の方向をいちじるしく強め,戦国大名に転化することに成功したものもみられるが,この戦乱のなかで,国内にあって荘園の押領を積極的におしすすめ,在地武士を組織化し,領国支配の実権をにぎった守護代などの在地領主の権力が強大化し,守護はしだいに没落していった。守護大名の領国支配の原権が,幕府公権の分掌というところにある以上,幕府と運命をともにせざるをえない限界が守護大名にあったといえる。
執筆者:勝俣 鎮夫
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南北朝・室町期に幕府から守護に任命され、任国内でしだいに大名領主化を遂げた権力をいう。後の戦国大名や近世大名と対比される。守護の本来の任務権限は「大犯(だいぼん)三箇条」で、任国内全体の行政・裁判権などは有していなかった。しかし南北朝期以降には、刈田狼藉(かりたろうぜき)や使節遵行(しせつじゅんぎょう)の権が与えられたため、任国内の地頭(じとう)や国人(こくじん)間の紛争にかかわる裁判や土地の管理などの権限を握るようになり、これをもとに地頭や国人の被官化を進めていった。一方、守護は、15世紀初期に至る過程で、伊勢(いせ)神宮役夫工米(やくぶたくむまい)・譲位段銭(たんせん)・即位段銭などの臨時税収取権を獲得するとともに、国衙(こくが)在庁官人を被官化し、国衙領を守護領とするなど、国衙の権能・機構・所領を吸収していった。また、半済(はんぜい)や守護請(うけ)を通じ荘園(しょうえん)をも徐々に自己の権力下に組み込んでいったが、いまだ全面的に組み込むまでには至らなかった。こうした権力的性格を有する守護大名の任国支配の実態は守護領国制とよばれている。有力な守護大名は赤松・大内・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・細川・山名氏らで、ともに数か国の守護を兼ねたが、なかでも細川氏は9か国、山名氏は11か国を領していた。こうした守護大名を統御するために、幕府は、九州と鎌倉府管轄下の東国以外の守護には、その任国支配を守護代にゆだねさせて在京させ、幕府の官僚に任じたり、それぞれの守護大名家の惣領(そうりょう)を幕府が決めたりなどしたが、一方では守護に対して前述のような任国における諸権限を与えねばならなかったのである。このように幕府・将軍に規制されながら、しかし幕府からの独立性を強める志向をもった相矛盾する要素こそが、守護大名および守護領国制の特徴である。なお守護大名を戦国大名と比較した場合、土地や人民支配の貫徹度においては戦国大名に劣るといえるが、それはあくまで相対的なもので、決定的な相違は幕府との関係のあり方に求められるべきである。
[久保田昌希]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
室町幕府下の守護を,鎌倉時代のそれと区別するために設定された学術用語。前代に比べ,その職権が著しく拡大したのが特徴で,刈田狼藉(かりたろうぜき)の制止,幕府の判決を施行する使節遵行(じゅんぎょう)などの職務のほか,任国全域に課役を賦課することのできる段銭(たんせん)徴収権をも掌握し,領域支配への志向を著しく強めた。さらに,軍事指揮官として任国の武士を動員するなかで,半済(はんぜい)あるいは敵方から没収した所領の処分権などの権益を用いて,武士たちを被官として組織化したが,幕政に参加するため在京することが多いこともあって,領域支配も主従制の構築も不十分にとどまった。応仁の乱以降の動乱期に戦国大名に発展した者も少なくないが,守護代や国人の台頭で没落する者が多かった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…この乱では,東軍(細川勝元方)と西軍(山名持豊(宗全)方)に分かれて,全国各地ではげしい合戦が展開され,中央の状況だけではなく各地の政治的状況が反映していた。
【原因】
[家督争い]
乱の原因は複雑な要素からなっていたが,その中でも表面だった要因の一つに,有力守護家内部における家督争いと,有力守護大名間の対立があげられる。たとえば三管領家の一つである畠山家では,1450年(宝徳2)に持国が家督を義就に譲って隠居した。…
※「守護大名」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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