仁和寺村(読み)にわじむら

日本歴史地名大系 「仁和寺村」の解説

仁和寺村
にわじむら

[現在地名]寝屋川市仁和寺本にわじほん町一―六丁目・仁和寺町・たから

淀川左岸沿いの平坦地の村。茨田まんだ郡に属し、淀川の対岸は摂津島下しましも鳥養下之とりかいしもの(現摂津市)で、渡船で通じた(昭和四九年休航後廃止)。淀川国役堤上を京街道が通る。同街道から分れ交野かたの道に接続する小道が南北に通る。東境には仁和寺囲い堤防が連なり対馬江つしまえ村と接する。古くは「にわいじ」と読んだ(寝屋川市誌)。前述の小道沿いに北からおくノ町・ひらノ町、京街道沿いにかみノ町・しもノ町の集落がある。上ノ町の堤に仁和寺浜があり下ノ町に一里塚があった(同誌)。「河内国小松寺縁起」に載せる保延五年(一一三九)の勧進奉加帳に「仁和寺住人円智」とあり、久安元年(一一四五)の近衛天皇綸旨に上仁和寺郷・下仁和寺郷がみえる(ただし両文書は検討を要する)中世仁和寺庄の地。

仁和寺村
にんなじむら

[現在地名]大東町仁和寺

前原まえばら村の北東あか川の右岸にあり、支流幡屋はたや川左岸に位置する。「出雲国風土記」の大原郡にみえる「往古之時、此の処に郡家ありき」とある旧郡家を当地の郡垣こおりがき付近に比定する説がある。また風土記に屋裏やうら郷新造院について「郡家の東北一十一里一百二十歩なり。層塔立つ。僧一躯あり。前の少領、額田部臣押嶋が造る所なり。今の少領伊去美が従父兄なり」とあり、この寺院跡を当地中原口を中心とした辺りに比定する説がある。中世には当地一帯に仁和寺庄が成立しており、文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳に「仁和寺庄五十丁神保四郎太郎子」とあり、地頭神保四郎太郎の子が二〇年に一度一七番目に三月会の舞頭役を勤めるよう定められている。

仁和寺村
にわじむら

[現在地名]安曇川田中たなか

馬場ばば村の南西に位置する。かつて仁和寺と称する寺があったための村名という。中世には田中郷のうち。枝郷に薬師川やくしがわがある。寛永石高帳に村名がみえ、高二〇〇石余で膳所藩領。慶安高辻帳では田方一七七石余・畑方九石余・永荒一三石余。元禄郷帳では膳所藩領と河内西代藩領、天明村高帳では幕府領一八九石余、膳所藩領一〇石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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