専念寺(読み)せんねんじ

日本歴史地名大系 「専念寺」の解説

専念寺
せんねんじ

[現在地名]新湊市本町三丁目

専修山と号し、本尊阿弥陀如来。単立寺院(もと真宗大谷派)。貞享二年寺社由緒書上は文明一六年(一四八四)賢祐の開基とする。享保七年(一七二二)の由来書上(寺蔵)によれば、住職は本願寺綽如の三男周覚の五男で、時衆となって報土ほうど寺底阿と名乗っていたが、文明一六年時宗から浄土真宗に転じたとする。「日野一流系図」に、周覚の子妙秀が底阿弥陀仏と名乗る時衆であり、越前長崎ながさき道場称念しようねん(現福井県丸岡町)の住持であったことがみえる。延徳二年(一四九〇)一月一〇日に本尊一貫代、翌三年九月二八日に親鸞絵像が本願寺八世蓮如より賢祐に下付されている(「五尊裏書」善徳寺文書)


専念寺
せんねんじ

[現在地名]松前郡松前町字唐津

近世の松前城下西館寺にしだててら町に所在。文化(一八〇四―一八)頃の松前分間絵図によると、北部の当寺西側に西教さいきよう寺、当寺の南方に浄応じようおう寺、同寺の東に欣求ごんぐ院がある。真宗大谷派、西立山と号し、本尊阿弥陀如来。天文二年(一五三三)本願寺実如の弟兼俊の孫真徳が蝦夷地に布教に赴き、蠣崎季広に招かれて一寺を創立したのに始まる(寺院沿革誌)。二世は季広の四男真勝であることから、当初から蠣崎氏と深く結び付いていた。慶長五年(一六〇〇)所在地を西館と称したのにちなみ西立山と号し、京都東本願寺末となった(寺院沿革誌)。本尊の「左足踏だし」の阿弥陀如来は、松前慶広が東本願寺の教如に願い受けたものといわれる。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]鶴岡市大山二丁目

大山の西部、旧西にし町の加茂かも港に通じる旧道沿いにある。鎮護山と号し浄土宗。本尊は阿弥陀如来。天正元年(一五七三)京都知恩院二九世岌善が開山。山号は古くは鎮護山と号し、その後書換えて糟渓山と称するようになったが、両号を称するのは不都合であるため本山知恩院に連絡をとり、さらに録所江戸増上寺の指図に従って、文政一二年(一八二九)鎮護山に統一する旨を預支配をしていた庄内藩寺社奉行に届出て許された(寺蔵過去帳)。秘仏阿弥陀如来像は聖徳太子の作と伝えられ、大浦おおら城主武藤氏が寄付したものといわれる。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]黒部市生地山新

近世の山生地新やまいくじしん村字穴田あなだにあり、真宗東派。現在は単立で、山号は梅沢山、本尊阿弥陀如来。寺伝によれば親鸞の弟子証性房(畠山重忠の一族)を祖とする。貞享二年寺社由緒書上によれば、慶長七年(一六〇二)に正宗が建立し、寺屋敷は地子地と記される。本願寺東西分派の事件で、当寺一一世正秀(法号正宗)が越中の教如擁立派の中心人物であったため、慶長二年七月六日藩主前田利家の命により、諸国僧俗への見せしめのため、富山いたち河原で処刑され、仏像・仏具など財産は没収、本堂や庫裏は焼打ちにされた。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]久御山町田井

田井たい集落の北部にある。放光山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、天文一八年(一五四九)御牧摂津守益景が称念に帰依し、専修念仏の道場として一宇を創建したのにはじまるという。また一説に、開基は称念で、天正一五年(一五八七)のこととし、檀越御牧益景が伏見ふしみ(現京都市伏見区)にあった聚楽じゆらく殿舎の古材を用いて造らせたともいう(京都府地誌)。また聚楽殿舎の古材を用いたことについては、天正一五年、豊臣秀吉の命によって御牧益景の子勘兵衛尉尚秀が引移し再建したともいう(佐山村郷土誌)。しかし秀吉による伏見城築城は同二〇年に着手されており、誤伝であろう。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]新井市吉木 上ノ寺

吉木よしき集落の南東にあり、勇猛山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。堀河宮内卿は小局こつぼね村に居住していたが、老人となってから信濃国水内みのち郡に移り、本山三世覚如の弟子となって唱導と改名、本尊の絵像を受けて同郡志津間しづま(現長野県飯山市)に一宇を建立した。その後小局村に移り、天正年間(一五七三―九二)西条にしじよう村に移り、寛永一四年(一六三七)現在地に移ったという。明和四年(一七六七)火災のため旧記録を焼失した。「大谷本願寺親鸞聖人真影 大谷本願寺 釈教如(花押) 慶長拾乙巳稔十二月□□ 信州笠原本誓寺門徒 越後国頸城□板倉□ 西条村専念寺□□□□ 願主 釈明順」という一軸があり、同じく釈明順が願主となっている文禄二年(一五九三)の顕如上人真影がある。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]橿原市土橋町

土橋つちはし町の中央にある。護国山と号し、真宗興正派。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、開基の敬念は秦川勝の末孫で守武重左衛門尉貞教といっていたが、出家して土橋の南方の原光千軒堂はらみつせんげんどうという地に真言宗の寺院を開いた。仁治三年(一二四二)堂宇を現在地に移したが、親鸞の教化に会い真宗に帰依して専学房教念と改め、真宗とした。文明九年(一四七七)九世慶祐は本願寺蓮如から専念房慶祐の名を賜り、のち房号を寺号とした。さらに一二世道哲のときの寛永一二年(一六三五)興正こうしよう(現京都市下京区)准秀が大和巡化のとき当寺に立寄り御坊としたという。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]有川町有川郷

高崎こうざきにある。一心山称名院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。正保二年(一六四五)の創建と伝え、寛文元年(一六六一)中世に有川一帯の領主であった有川善内の家臣江口甚左衛門正明が開基となり、筑後善導ぜんどう(現福岡県久留米市)の閑蓮社清誉臨徹を招いて開山とした。明治初年廃寺となった有川村の常楽じようらく寺と上有川村の円福えんぷく寺の仏像類が当寺に移され、安置された。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]観音寺市観音寺町 大和町

浄土宗で福聚山普門院と号する。かつては井戸いど(現木田郡三木町)専修せんしゆう寺末。本尊の阿弥陀如来は定朝の作と伝え、左右に観音・勢至両菩薩を安置。創建は康正二年(一四五六)と伝えるが、文化四年(一八〇七)の観音寺大火と明治六年(一八七三)の西讃竹槍騒動で火災にかかり古文書類を焼失。二〇世の住職で当山の中興惟誉は五梅と号し俳句をたしなんだ。竹阿門で小林一茶と交遊があり、俳歴は宝暦―寛政(一七五一―一八〇一)にわたる。享和三年(一八〇三)没。当寺に墓がある。一茶は寛政四年夏に五梅を訪ねたほか同七年三月までに数回滞在している。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]五戸町 愛宕後

しん町の南西に位置する。一向山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。藩政期末の南部領寺社鑑写(岩手県盛岡市中央公民館蔵)に「三人扶持現米拾石 五戸新田 一向山専念寺」とある。元亀元年(一五七〇)の開創で、開山は岌誉(新撰陸奥国誌)、開基は三浦千太夫と伝える(五戸町誌)。専念寺観音縁起(同書)によれば白雉五年(六五四)小川原おがわら湖畔に開創され、海光山と号したが、のち百石ももいし(現上北郡百石町)轟木とどろき(現八戸市)を経て当地へ移転し、山号を現山号に改めたとされる。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]福井市免鳥町

免鳥めんどりの南方山麓にある。真宗三門徒派で長久山と号し、本尊は阿弥陀如来。真宗三門徒派は本山を中野専照なかのせんしよう(現福井市)とするが、専念寺はその末寺中でも老分格の寺である。寺蔵の文書に天正一三年(一五八五)の平山寄進状、同一六年鴨野藤右衛門の諸役免許状、慶長一三年(一六〇八)の萩野河内書状などが残り、いずれも安乗あんじよう坊宛となっているから、免鳥の八幡宮別当安乗坊が当寺の前身であったと思われる。当寺が専念寺と改号するのは、おそらく近世初頭であろう。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]下関市南部町

しろ山の南西にある。時宗で長楽山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、推古天皇の一九年百済の琳聖太子の開基で長楽山福生ふくせい寺と号し、下関で最も古い寺と伝える。

初め天台宗であったが弘長年中(一二六一―六四)一遍がこの地を遊行した時当山の顕忍が帰依して時宗に改め、寺号も専念寺と改称した。大内氏時代は一千石の寺領を有していたといわれ、赤間関では東の阿弥陀あみだ寺とともに二大寺院として隆盛したという。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]下関市大字阿内

阿内おうちの東南部、法釈ほうしやくにある。浄土宗。称名山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、もとは医王山真養しんよう寺と号し真言宗であったが、慶長五年(一六〇〇)下関の引接いんじよう寺三世来誉が再建し浄土宗に改宗したという。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]山辺町山辺

山辺地区の中央、山野辺やまのべ城跡の北東にある。慈光山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。開基は弾正院釈本西。永禄年中(一五五八―七〇)出羽へ下った本西は金樹こんじゆ(現村山市)を開いた。二代・三代も本西を号し、山野辺義忠が三代本西に帰依、最上義光の四男であった義忠は慶長六年(一六〇一)山野辺城主となり、四代明栄の時代の同一四年に、義忠は長女玉桐姫の死を弔うため深堀ふかぼりに一寺を建立、専念寺と号し、山形城下専称せんしよう寺の末寺となったという。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]蟹田町蟹田

集落中央、街道の西にあり、樹齢三〇〇余年の樹木に囲まれる。一向山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。もと弘前誓願せいがん寺末。寛永二年(一六二五)一蓮社良向により開創という。上磯かみいそ地域で最も古い寺の一つで、寺宝に双盤がある。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]豊科町大字高家 真々部

真々部氏館跡の西北方、下町と西小路の間にある。浄土宗、無量山阿弥陀院。知恩院末。本尊は阿弥陀如来。開山光蓮社明誉上人(信府統記)で、寺伝によれば文明二年(一四七〇)四月四日没。創立寛正年中(一四六〇―六六)。境内は東西六五間、南北八五間、境内に六坊があったという。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]下市町大字新住小字寺シモ

新住あたらすみ集落の西端、河南かなん街道傍らにある。行住山清浄院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来坐像は平安末期の作。寺伝によると、創立は応永四年(一三九七)、開基は小石川伝通こいしかわでんづう(現東京都文京区)の開山了誉聖冏。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]西尾市上羽角町 郷内

上羽角かみはすみ町の西端、広田こうた川に面して立つ。一向山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。針崎勝鬘はりさきしようまん(現岡崎市)のもと末寺。堀井専之助が矢作柳やはぎやなぎ(現岡崎市)で親鸞の弟子となり、専乗と改め、羽角の郷に一堂を建立、文永一一年(一二七四)二世智乗に至り専念寺の寺号を受ける。


専念寺
せんねんじ

[現在地名]大村市中里町

鈴田すずた川左岸にある。高丘山一心院と号する。浄土宗。本尊は阿弥陀如来。正保元年(一六四四)大村藩三代藩主大村純信による創建で、荘蓮社心誉単冏を開山とすると伝える(浄土宗寺院由緒書・大村郷村記)


専念寺
せんねんじ

[現在地名]五所川原市広田 下り松

広田ひろた集落の南、十川とかわ橋のそばにある。円通山と号し、浄土宗、本尊阿弥陀如来。貞享四年(一六八七)検地帳に専念寺とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「専念寺」の解説

専念寺

(大阪府大阪市東淀川区)
私が選んだ東淀川100選」指定の観光名所。

専念寺

(兵庫県神戸市北区)
新・こうべ花の名所50選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android