日本歴史地名大系 「仲村」の解説 仲村なかむら 千葉県:鴨川市仲村[現在地名]鴨川市仲南小町(みなみこまち)村の北西、加茂(かも)川上流域に位置し、長狭(ながさ)道が通る。江戸時代初期までは大川面(おおかわづら)村・宮山(みややま)村とともに吉保(よしほ)村と称し、元禄(一六八八―一七〇四)以前に三ヵ村に分村した。「嶺岡五牧鏡」にこの三ヵ村は「往古ハ一村ニテ吉保村ト唱。于今田畑共三ケ村入会ニ有之、吉保三ケ村ト唱フ」と記される。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に吉保村とみえ、高一千三〇七石余(うち田方八七五石余)、里見氏直轄領。同一一年の里見家分限帳には吉穂村とあり、長安(ちようあん)寺領一一五石・道種(どうしゆ)院領五石のほかは同氏直轄領。 仲村なかむら 大分県:大分市旧大分町地区仲村[現在地名]大分市高瀬(たかせ) 仲村七瀬(ななせ)川右岸に位置し、東は田尻(たじり)村、西は高城(たかじよう)村。文禄二年(一五九三)八月の稙田庄之内高城村中村検地帳(安東家文書)によると村位は下、田数六町一反余・分米六二石余、畑数五町五反余・分米三五石余、屋敷七反余・分米七石二斗余。分米合計一〇五石余のうち六〇石余は荒。名請人三九(うち屋敷持一五)。木綿栽培が盛んであったらしく七反余に作付されている。元和九年(一六二三)岡藩領になったと考えられ(大分市史)、正保郷帳では仲村とみえ田高五五石余・畑高五石余。 仲村ちゆうむら 福岡県:筑紫郡那珂川町仲村[現在地名]那珂川町仲一丁目・仲・王塚台(おうつかだい)一―三丁目五郎丸(ごろうまる)村の南、那珂川右岸にある。慶長石高帳には下村内中村とあり、もとは今光(いまみつ)・松木(まつのき)・五郎丸と当村の四ヵ村が下村のうちであったと推定される。「和名抄」所載の那珂郡那珂郷を当村付近にあてる説もあり、また村名の由来は那珂郷から那珂村としていたが、別に那珂村があったので中村と書き、さらにこれを音読したことによるという(続風土記拾遺)。慶長七年(一六〇二)の検地高は六三一石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高六三七石余、家数三五・社一、人数一九五(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も六三七石余。 仲村なかむら 大分県:直入郡直入町仲村[現在地名]直入町下田北(しもたぎた) 仲村橘木(たちばなぎ)村の東、城後(じようご)村の北、二又瀬(ふたまたせ)川中流域に位置。田北氏の祖親泰が嘉禎二年(一二三六)父大友親秀から所領を譲与され、翌三年安堵の将軍家下文に「仲村」がみえる(「大友田北氏系図」田北赳夫本)。江戸時代には幕府領直入郡一二ヵ村の一で、領主の変遷は須郷(すごう)村と同じ。元禄郷帳に村名がみえ、高一四三石余。旧高旧領取調帳では高一四四石余。文化九年(一八一二)幕府領一二ヵ村でも百姓騒動が起き、当村鎮守の八社神社に約五〇〇人の農民が参集したが一揆には至らなかった(「郡方騒動取締書控」田北家文書)。 仲村なかむら 大分県:竹田市仲村[現在地名]竹田市久保(くぼ)玉来(たまらい)川北岸にある。中村とも記す。正保郷帳では家中(かちゆう)郷に属し、田方一二石余・畑方二六石余。弘化物成帳では中角組のうち、村位は中、免四ツ、田五石余(五反余)・畑四七石余(八町五反余)・屋敷八斗余(八畝余)で、開田九斗余(四反余)・開畑一六石余(三二町余)がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by