愛媛県中央部、伊予郡の町。1928年(昭和3)町制施行。1955年(昭和30)原町村と合併。2005年(平成17)広田村(ひろたむら)を合併。町域の中央を重信(しげのぶ)川に注ぐ砥部川が北流する。南部は四国山地の山間地帯で、三郷の辻(932メートル)などの高峰に囲まれ、田渡(たど)川上流域となっている。北部は重信川付近で松山市と接する。国道33号と379号が通じ、松山自動車道の松山インターチェンジが近い。奈良時代から砥石(といし)の伊予砥の生産が盛んで藩政時代には藩の保護下にあり、砥部の地名もそれに由来する。1635年(寛永12)伊予郡は松山藩領から大洲(おおず)藩領へ移された。麻生(あそう)は大洲藩の在町としてつくられた地。農地の大部分は樹園地でミカン栽培が盛ん。山間地帯ではスギ、ヒノキの生産のほか、ブドウやクリの栽培が盛ん。上尾峠(うえびとうげ)一帯では砥部焼の原料となる陶石採掘が行われ、瀬戸、多治見(たじみ)などへも出荷されている。中心地区は砥部川左岸の段丘上にある大南(おおみなみ)で、18世紀の初めごろに始まった砥部焼の中心でもあり、窯元が多い。砥部焼は国の伝統工芸品、県の無形民俗文化財に指定されている。砥部川中流の岩谷口にある「砥部衝上(しょうじょう)断層」は国指定天然記念物。近年、北部は松山市南郊のベッドタウン化している。県立とべ動物園、県総合運動公園、児童厚生施設「えひめこどもの城」、県立医療技術大学、陶芸創作館、砥部焼伝統産業会館などがある。面積101.59平方キロメートル、人口2万0480(2020)。
[横山昭市]
『『砥部町誌』(1978・砥部町)』
愛媛県中央部,伊予郡の町。2005年1月旧砥部町と広田(ひろた)村が合体して成立した。人口2万1981(2010)。
砥部町北部の旧町,伊予郡所属。人口2万0961(2000)。北の松山市との境を重信川が西流し,町域中央を北流する砥部川が重信川に注ぐ。この両川沿いに低地が開ける。砥部焼として知られる製陶の町で,文禄・慶長の役のとき朝鮮から渡来した陶工が始めたという伝えがあるが,安永年間(1772-81)五本松の上原(かんばら)に窯を開いた杉野丈助が砥部焼の祖とされる。大洲藩の保護奨励もあって発展,現在は食器,花器,茶器のほか電気碍子(がいし)の生産も多い。山地斜面ではかんきつ類の栽培が盛ん。川登に大森彦七の居城という世里(せり)城跡があり,重信川に注ぐ矢取川は塩売淵,茄子ヶ窪(なすがくぼ)など彦七にまつわる伝説が多い。宮内には砥部川右岸の丘陵上に大下田(おおげた)古墳群がある。中央構造線上にある岩谷口の砥部川河床には砥部衝上断層(天)がみられる。町内には国道33号,379号線が走り,松山市のベッドタウン化も進んでいる。
砥部町南部の旧村。伊予郡所属。人口1114(2000)。肱(ひじ)川に注ぐ小田川の支流田渡川上流域に位置し,石鎚連峰の支脈に四方を囲まれる。耕地に乏しいため,木材,クリ,シイタケ,タバコなどを栽培する。北東に接する旧砥部町との境,上尾(うえび)峠(463m)付近では陶石が採掘され,旧砥部町の砥部焼をはじめ,名古屋,多治見などの陶器産地に原料を供給している。中野川にある権現山は信仰の山で,東方の石鎚山に対して小型の石鎚山として〈西の権現〉と呼ばれる。山開きは毎年旧暦6月1日。山麓の白糸の滝は行場で,高さ15m。猿谷の仙波ヶ岳は高さ80mの岩峰がそびえる景勝地。
執筆者:上田 雅子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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