伊香保村(読み)いかほむら

日本歴史地名大系 「伊香保村」の解説

伊香保村
いかほむら

[現在地名]伊香保町伊香保

ふたッ岳の北東傾斜地に位置。東は当村および渋川村石原いしはら(現渋川市)などの入会秣場、南は当村および桃井もものい領一三ヵ村など合せて一八ヵ村入会秣場の字うえたいら、北は湯中子ゆなかご村と祖母島うばしま(現渋川市)。東方を伊香保道が南北に走り、同道には北国筋への抜道になるとして寛永八年(一六三一)以来口留番所が置かれていた(天保三年「口留番所勤方心得書」木暮文書)。「天保巡見日記」に「村形ハ、榛名山之後に北向、其下に吾妻川あり、極寒地、中腹より山之七八分まて畑をひらき難渋之地方、温泉のミにて取続く村方なり」と記すように立地上耕地は畑のみで、村の中央二ッ岳北東急斜面にある伊香保温泉を中心に発展、農耕よりも温泉稼を主とした。したがって村政には同温泉の引湯権をもつ一四軒の大屋(本百姓)が重きをなした。伊香保という地名は「万葉集」以来、和歌や諸書に散見するが、伊香保山は現在の榛名山のことで広く同山麓一帯を伊香保とよんだものと思われる。元亀二年(一五七一)九月二六日、武田信玄真田昌幸を先兵として白井しろい(現子持村)に攻め入ったが(武田信玄感状「松城通記」所収)、「双林寺伝記」は同三年のこととして昌幸は当地に寄居を構え渋川へも出陣したと記す。

承応三年(一六五四)の検地帳写(木暮文書)によると、上畑はなく中畑三町七反余・下畑八町八反余、下々畑は新開と合せ六町八反余で計一九町三反余、四二七筆で、うち三〇五筆が大屋一四軒の分付となり、安中藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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