渋川村
しぶかわむら
[現在地名]渋川市 大崎・下郷・東町・新町・下ノ町・南町・長塚町・本町・寄居町・坂下町・並木町・中ノ町・上ノ町・川原町・裏宿・元町・入沢・上郷・藤ノ木・辰巳町・御蔭・明保野
ほぼ南流する利根川に西方から吾妻川が合流する地点の西側に位置する。三国街道の宿駅で、東南の中村を通ってきた佐渡奉行街道が南隣石原村からきた三国街道に合流し、北西方金井宿に向かう。
東京国立博物館蔵の貞和四年(一三四八)七月二七日在銘の懸仏に「渋河金屋天王」、埼玉県比企郡小川町鎌形八幡宮蔵の同年七月日在銘の懸仏に「渋河閑坊」がみえる。赤木文庫本「神道集」(上野国第三宮伊香保大明神事)には「渋河ノ保ノ郷ノ戸ノ村ニ衆生利益ノ為ニトテ療治ノ御湯ヲ出サレタリ(中略)男体ハ里ヘ下セ給テ三宮渋河保ニ立セ御在ス」とある。永禄一〇年(一五六七)五月一日「渋河之内石原之郷」一五〇貫文が浦野民部右(左か)衛門尉に与えられている(武田家朱印状写「新編会津風土記」所収)。元亀二年(一五七一)武田氏の麾下真田氏が白井(現北群馬郡子持村)に攻撃をかけ、「渋川エ働出、宿中無残放火」された(双林寺伝記)。天正一〇年(一五八二)二月二六日には北条高広により「渋川入沢村之内十弐面参貫五百文之所」が子持神社(現子持村)に寄進されており(「北条高広寄進状写」子持神社文書)、同一四年二月一四日には「渋河之内」一〇〇貫文が富沢大学に与えられている(真田昌幸書状写「長国寺殿御事蹟稿」所収)。
渋川村
しぶかわむら
[現在地名]引佐町渋川
都田川(久留女木川)の上流域に位置し、西方の浅間山(五一九メートル)から村域最北端の鳶ノ巣山(六六九・五メートル)に至る尾根は三河国との国境をなす。東は豊田郡神沢村(現天竜市)、南は別所村・久留女木村。当地の長山家は天文八年(一五三九)九月吉日の年紀銘をもつ鰐口を保管しており、その銘文から鰐口は同月に「伊那佐郡渋河大平村泉徳寺」に奉納されたものであることがわかる。天正三年(一五七五)五月六日の武田家禁制(写、中村文書)は当村に下されたものとされており、三河長篠合戦に出陣する武田軍が当村を通行するにあたって軍勢の濫妨狼藉を禁じている。寛文年中(一六六一―七三)以降に東光院の住持が書いたと推定される井伊家渋川村古跡之事(龍潭寺文書)によると、当村に居住した井伊直之(法名前遠州大守温渓良知大禅定門)は正和五年(一三一六)に没したと伝える。
渋川村
しぶかわむら
[現在地名]安達町渋川
油井村の北に位置し、東は小沢村・上川崎村。東西に細長い村で北は吉倉村・米沢村に接し、西は安達太良山中の黒森山。耕地や集落は東部に集中し、西部は山地である。江戸時代には奥州道中の宿駅があり二本柳宿と称した。
天正一三年(一五八五)一〇月、二本松畠山義継を殺された義継配下の当村等の兵は同月八日の晩に二本松へ引き退き籠城した。
渋川村
しぶかわむら
[現在地名]八尾市渋川町三―七丁目・渋川・跡部北の町一―二丁目・春日町一―四丁目など
久宝寺村の南、長瀬川(旧大和川の本流)の左岸に位置する。南は植松村。奈良街道を植松村まで来て、道を北にとって進むと当村に入り、さらに北に行くと久宝寺を経て八尾に向かう。当地の小字法着寺に宝積寺(渋川寺とも)跡と伝える寺院跡がある。飛鳥時代の古瓦も出土し、かつては塔心礎も残っていた。
渋川村
しぶかわむら
[現在地名]草津市渋川一―二丁目・若竹町・西渋川一―二丁目
葉山川左岸に広がる田園地帯で、中山道沿いの村落。南は大路井村。村内を伊砂砂川が流れ、水利に恵まれた。元亀三年(一五七二)渋川惣代は一向一揆に内通しない旨の起請文を出している(→草津市)。慶長一九年(一六一四)中山道より西に位置した集落が道沿いに移されたと伝える(栗太志)。
渋川村
しぶかわむら
[現在地名]清水市渋川・渋川一―三丁目・高橋四丁目
北脇村の東、巴川の中流右岸にあり、東・南は入江町。天文一八年(一五四九)八月一一日の駿府浅間社社役目録(村岡大夫文書)に「渋河」とみえ、青山放生会流鏑馬郷役として三貫二〇〇文を負担している。当地は平安末期から居住した入江一族渋川氏の本貫地であったと考えられ、渋川館跡と称される地がある。
渋川村
しぶかわむら
[現在地名]玉野市渋川一―四丁目
日比村の西、南は瀬戸内海に面する。西行「山家集」に「日比・渋川と申す方へまかりて、四国の方へ渡らんとしけるに、風悪しくて程経けり。渋川の浦と申所に、をさなき者どもの数多物を拾ひけるを問ひければ、つみと申物拾ふなりと申けるをきゝて」として「おり立ちて浦田に拾ふ海士の子はつみより罪を習ふなりけり」と詠んでいる。
寛永備前国絵図では高二一三石余。
渋川村
しぶかわむら
[現在地名]守門村渋川
破間川の左岸にある。下流は細野村、対岸は長取新田・西名村・東名村、東は大栃山村(現入広瀬村)。六十里越の道が当地で分岐し、川を渡って高倉村の石峠(標高五一〇メートル)で栃尾へ至る道が通じる。正保国絵図に村名がみえ、高六三石余。天和三年郷帳では高五七石余。ほかに同所新田高八石四斗余がある。
渋川村
そぶかわむら
[現在地名]豊田市広川町・宝来町・渋谷町
寺部池の西に位置し、寺部村・森村と境を接する。文久二年(一八六二)の村絵図によれば、加茂川が村を二分する形で東西に縦貫し、そのほとりに性源寺がある。集落はすべて加茂川より南に形成され、山の神が二ヵ所と、入沢池があり、水は加茂川から引入れられている。慶長一五年(一六一〇)から尾張藩寺部渡辺氏の支配で明治に至る。
渋川村
しぶかわむら
[現在地名]双葉町渋川
南西は寺沢村、南東は丘陵を隔てて下羽鳥村。丘陵の間を渋川という小流が流れ、その流域に水田が開け、北側丘陵沿いに人家がある。寺沢の仲禅寺の康永二年(一三四三)六月六日の十一面観音胎内銘に「渋川妻内方」とみえる。寛永一六年(一六三九)の高六〇四石余、明暦二年(一六五六)松倉村を分村した(相馬藩政史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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