日本歴史地名大系 「伏見殿跡」の解説
伏見殿跡
ふしみどのあと
延久年間(一〇六九―七四)造営した藤原頼通の第三子橘俊綱の伏見山荘が前身。俊綱は、その山荘の広大なこと、また山荘における生活の豪奢なことから伏見長者とも称された。寛治七年(一〇九三)一二月二四日焼亡した時、「中右記」は「今日辰時許、修理大夫俊綱朝臣臥見亭已以焼亡、件処風流勝他、水石幽奇也、悉為燼、誠惜哉」と記している。また「今鏡」は
山荘の位置は「雍州府志」に「在伏見山之南、其地南向、山水在目前且地形自有高低、雪朝特添奇観、俊綱常以是誇人云々」とあることから、伏見山の南麓、
俊綱の没後、この山荘は弟の家綱に譲られ、家綱はこれを領地とともに白河院に献上、白河院はそれを甥の源有仁に与えた。有仁がこの山荘に移り住んでそれを伏見寺としたのは保延二年(一一三六)の頃といわれている。後、頌子内親王より伏見庄の知行をゆだねられた平範家がこの伏見に
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報